newworld

newworld

読みものサイトはじめました

h
2021.09.09

2005年、太田出版から出版されて帯には2020年の初めに亡くなったエッセイストの坪内祐三が“何てリアルな表現だ”と惹句を贈った『失点イン・ザ・パーク』に、ECD自身が回想としてそのことをこのように記している。それはちょうど2000年、彼が地元と呼ぶ下北沢のチェーン中華料理店“餃子の王将”の隣のテーブルにB・ボーイ(註:ここではヒップホップを好きそうな格好をしている若者の意)がいて、彼らが自分の顔をちらちらと見ていることを発見する件りである。

自分がプロデュースしたイベント「さんピンCAMP」からも、もう4年が経とうとしている。ラッパーとしてのちゃんとしたライブも二年前を最後にやってない。
 下北沢のライブハウス「シェルター」で行われたそのライブは、まだメジャー・デビュー前のS・Kの企画によるものだった。地元シモキタ、しかも大好きなシェルターのライブということで、僕はいつになく張り切っていた。客の入りは四〇〜五〇人。僕がライブを始めてもステージ前の空間は空いたままだ。
 ひとりだけ、スーツ姿の男性が一番前で体を揺すっている。この人には見覚えがあった。八〇年代のじゃがたらのライブや、ちょっと前ならビブラストーンのライブでも必ず見た人だ。福助を思わせる愛嬌のある特徴的な風貌は、一度見たら忘れられない。今日はこの人のためだけにライブをやろうと決めた。
 その何ヶ月か前、僕はユウ・ザ・ロックのリリース・パーティーで、ヴェルファーレのステージに立っていた。きらびやかなヴェルファーレが若いB・ボーイでいっぱいになっていた。僕のライブでも、B・ボーイ達は前に押し寄せ、巨大なビデオプロジェクターをバックにラップしている僕に向けて手を伸ばす。
 しかし、それを僕は自分の力によるものだとは思えなかった。こいつらのひとりとしてECDを見にきているわけではない。そう思った。しかし、今、シェルターでひとり盛り上がるスーツ姿の彼だけは、確かに僕を観に来てくれているのだと信じることができた。
 ステージの上からは、スポットライトが逆光になるので、遠巻きに立っている後方の客は黒い影にしか見えない。ほとんど彼と一対一のライブだ。僕は気持ちよくラップすることだけに集中することができた。いつの間にか我を忘れ、最後には上半身裸でラップをしていた。いいライブだったと思う。
 今、「餃子の王将」僕の目の前にいるこのB・ボーイは、シェルターでの僕を知らない。まして、僕がもう音楽なんかやらないと決めていることなど知る由もない。ニキビ面に流行りのナイロン製の被りものがまったく似合っていないそのB・ボーイの顔をまじまじと見る。こんな奴のために自分は音楽をやってきたのかと思うと、やめることにして心底よかったと思う。そして一日も早くこんな奴らとは無縁になりたいと願うのだった。 [1]

見も知らぬ若いファンに対してのECDのいっときの感情をそのままここに記された言葉の額面通りに受け取ってはならない。口汚い言葉に渦巻くような感情へと、自分のアイデアや言葉それ自体によって駆りたてられてしまうことは誰にでも頻繁に起こる。それに加えて、悲しいけれどこうした時間や場面からずいぶんと長い距離を経て、今では私たちはECDが結局のところ音楽を“降りた”ままにせず生き続けたことを知っていて、即ちファンに対してのこの感情もいっときの、むしろ彼自身にうちにある問題ゆえであろうと想像がつくからであること、いうまでもない。それはノン・フィクションや長編小説といった峻別ありきでメイン・ストリームとされる模範的な芸術形式と異質で、ECDの文才は別として、読んでいる人間になぜ自分はこれを読み続けているのだろうとふと戸惑わせたりもするだろう、『失点・イン・ザ・パーク』という名の言葉の連なりが暴露するアルコール中毒症状の苦しみとも関係があるだろう。

例えば、この挿話から12年経ってリリースされたアルバム”Don’t Worry, Be Daddy”に収められている“餃子の王将”から歩いていくことの可能な場所を舞台とした“大原交差点”では、依然として、あの独特のはにかむようでもある素知らぬ表情で、でも彼らしいのは、スムースに言葉を投げかけることさえを回避するよう、生きていく限りラップをしていきたいという願いそれ自体のラップを聞くことができる。

 戻りたい どうかあの頃に とかなんて/柄じゃない つうか これサイコロの判定
受け入れるしか しようがない この不安定/まだ揺れる 一生 しない反省
戻りたい状態 それなら自分で探りたい シンセサイザーとドラムマシンで
喋りたい マイクで いちいち語尾韻踏んで いる間 every night and day
“大原交差点”

この5年後、ECDの最後期の2017年にリリースされたDJ Mitsu The Beatsとの作品は、彼が育った日本の経済高度成長期 を上りつめたアイコンのひとりだった俳優/ミュージシャンの加山雄三のカヴァー“君といつまでも(together forever mix)”であった。音楽へのラヴ・レターともいうべき、恋の状態にある人の胸の鼓動が聞こえるようなときめきが色濃く響くポップ音楽に仕立てあげられている。1960年代始めの日本の楽観的な雰囲気を伝えるオリジナルのヴォーカルに続いて、ECDのラップはこのように始まる。ここでの君とは、まず音楽である。

ねえ、どうしたら君といつまでもいられる?どこにある 答え ここ ここにある
リアル つかめない夢じゃないはず ほっぺたつねる それを確かめる

これでは17年前に彼の近くのテーブルに座った若いファンはまるでとばっちりで、音楽をやめることにして心底よかったと彼は感じたのではなかったか? しかし、この1960年代の、思い出すために付け加えるなら、まだ革命の齟齬と紊乱による“天使の恍惚”に達していくまでの時間を持ち堪えた時期の日本で作られたメロディに殉ずる甘美な始まりにもかかわらず、リリックは決してすべての人々の美徳として振り返えられるノスタルジーについてのみではない。

そりゃあ夕陽だっていつか色褪せる 水平線向かい陽は落ちる
日が暮れる時はさりゆくさだめ 暗くなるお前の顔もよく見えねえ
明かりつけてくれこれじゃ字も書けねえ そしてこれから続く長い夜を過ごすための歌詞を書き記す

反対に、それは終わりについてである。

灼けた肌 火照り 冷ます氷  そう その塊みたいな奴さ
若さ馬鹿騒ぎ疲れ逃避行 やらかしたいろいろももう時効 夜が明ける前に砂浜に埋めよう

若さゆえの馬鹿騒ぎにふと疲れを感じ、そこから逃れようとする。そのとき、なぜ “やらかしたいろいろ”がもう時効だと許されるのか? これは糾弾されるべし/これは不問とされると誰が決定する権力を持ちうるのか?と、訝しくもなる。しかしながら、ここでの感情の動きは、これまで彼により生きられた時間がとうとう終わりに近いところまでに来ているとして、これから始まり続いていく長い夜に比肩するならば、思い返せるこれまでの総体はほんの一瞬にもならない、という諦めの状態への変貌のうちにある。時効とは手に免罪符を握ることに間に合ったのではなく、すべてはもう早過ぎた/遅過ぎたのだと気がつかざるを得ない瞬間のことである。

なんもねえガキさ おれもそう同じさ
貧乏なうちに産まれ落ちたばっかりに しんぼうすることばっか覚えちまった

手紙を一字一句読み上げるようなECDのラップとMitsu The Beatsの人が歩んでいくリズムのように刻まれるトラックによる物語に耳を傾けていると、歴史や場が個人を規定にかかるさまを超越しようとするキャラクター“なんもねえガキ”が不意に登場する。2010年代の彼の熱心な聞き手はすぐに2015年の”Lucky Man”のリリックを思い出すだろうし、“さんピンCAMP”以前の日本のヒップホップの創世記の幾つものパーティに--新宿での”CLUB OF STEEL”、代々木などでの”CHECK YOUR MIC”など――に出かけて行ったようなファンであれば、代わりに“そんなときこそECD”と口に出してもいいのだが、ここでは、その前者“Lucky Man”のリリックを引用することにしよう。

何もねえガキが一夜でスターに変わる的な 歴史的な瞬間に立ち会えたラッキー
そん時のこととなるともう興奮して話し 何回目だよって言われるような人間になるには
よそ見しちゃダメだ 油断は大敵 見逃した不運を一生後悔して嘆き
不幸な余生送ることになるのは悲劇 だってまだ始まったばっか21世紀

なんもねえガキは、なんもねえガキで決して終わらないことで、ヒップホップがアメリカから日本に持ち込んだ“アメリカン・ドリーム”のサウス・ブロンクス、コンンプトン、またそれを実現したすべてのゲットー版といえる“ヒップホップ・ドリーム”を部分的にも体現し、“共同体”がその成員たる個人を決めつける手つきから逃走し逆襲のために帰還する。逆襲という華々しい言葉がここに相応しいのは、まず共同体が最初に動き、その逆ではなく、それに対してのアクションの始まりとしてあるからに他ならない。ECDの昇降もこれに連鎖するものとして起こる


ECD“LUCKY MAN”アナログジャケット(2018)

いうまでもなく、“なんもねえガキ”も、“そんなときこそ”登場する“ECD”も石田義則だけではない。

無限に続く奇跡のような出来事が期待される“なんもねえガキ”は繰り返し入れ替わることで個人的な感傷の限界を超越し、人は――ECD本人も――ここでの一夜でスターに変わった“ガキ”とは、例えば、2010年代半ばの“自由と民主主義のための学生緊急行動”、つまりSEALDsのメンバーをも指すと認めている。

2010年代半ばには、SEALDsの東京は官邸前などにおけるデモンストレーションのシュプレヒコールに“日本語ラップ”が与えた影響といった話題が一部の雑誌、ウェブメディア、ラジオ番組などで取り沙汰された。SEALDsのメンバーにラッパーがいることも含め、彼らとECDの関係については機会を改め触れるべきだろうが、ここでは、アートを拙速に特定のイデオロギーに接続し解釈しようとすることは措いて、また空間と音楽の繋がりを無視しての表層的な風俗の変遷を取り上げるジャーナリズムも退け、むしろその根底において日本語においての押韻の実践という後戻りのできない歴史上の変動があること、そのうえでラップとデモンストレーションのシュプレヒコール双方に公共圏でのパフォーマティヴな発話が通底していることを強調しておく。それは後付けではなく、ストリート=街路において誕生・発展したDJ、ラップ、ブレイキング、グラフィティという四大要素としてのヒップホップに内在するものと内在しないものにまつわり、即ちそのストリート・カルチャーとしてのありようが喚び起される。

[1] 『失点・イン・ザ・パーク』太田出版、2005、p.140。

荏開津広

Hiroshi EGAITSU
執筆/DJ/PortB『ワーグナー・プロジェクト』音楽監督。立教大学兼任勤講師。90年代初頭より東京の黎明期のクラブでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。