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2022.07.15

11 TEN YEARS AFTER
雑誌と映画の“風景”

荏開津広

自分の周囲の、そうとは意識せずとも自身を包んでくれているはずの空気が何者かによって設定されたもののように人工的で、その証左として酸素が薄く感じられていくことを打ち消すために走り出すしかない。ECDにとってそんなのっぺらぼうで巨大な空間であった吉祥寺の駅前の書店に、彼が情熱を捧げていたアート=ロック音楽についての或る雑誌が「地下出版物のような風情で書店に並んでいた」、こうECDは記している。

その雑誌の1974年9月号のカヴァーは、いわゆる“ジギー・スターダスト”時代の、その相貌に流れ落ちる鮮やかなブルー/レッドのメイクのデヴィッド・ボウイーのアイコニックなポートレートを切り刻み、瞑っている目の部分をずらしながら逆さまにくっつけたうえ、上から斜めにコラージュと思しき酒瓶の口などが彼の唇に向かうものだ。


『ロッキングオン』1979年9月号の表紙

デザインは大胆で奇をてらうだけでなく、自分たちを落胆させた時代と騒然としていた社会の問題に群がっていた旧世代への新しい感受性の方角からの異和の表明でもある。例えば、ここでは世界に流布するイメージが誰によっても操作されうることは自明だからこそ、自分たちの手によって悪戯めいて繰り返され、返す刀で自分たちの間でも共有されていた幻想への期待は風化させられている。そのことは高度な技術による達成というより、同時代のウォーホルやリキテンスタインの重みを誇示しないポップ美術への理解があり、その先に見える新しい時代を招き寄せようとする乾いた美学の下に、十分にソフィスティケートされた(一体、どこで? もちろん、高度に発達した後期資本主義社会が花盛りの日本において!)拒絶のジェスチャーを発散する。表紙において、彼らはそうした仕掛け人にして了解者である自分たちを“ROCK FAN”と呼ぶ。

『Rocking On』 ――“ロックし続けること”と題された“ROCK MAGAZINE BY ROCK FAN”は、従来の権威ある編集者とそれを手にとる末端の読者ではなく、例えば、ボウイの音楽だけでなく、ボウイのポートレートへの審美的なコメントともいえるグラフィック・デザインなどにも隈なく外挿された予感を感受する能力を持った、新しい“関係”を取り結ぶことを可能とする新しい“種”同士として――そのように思考し振る舞うことが可能であるべき“主体”の登場をめぐる。

 そう、僕はまぎれもなく、そんな「ロック、ロックとつぶやく」若者だった。実際、教室の自分の机に「ROCK」とコンパスの針で彫ったこともあった。渋谷陽一、岩谷宏、松村雄策、橘川幸夫、当時のレギュラー執筆陣それぞれの書く文章を僕は好きだったが、その中でも最も強い影響を受けたのが岩谷宏だった。
 岩谷宏はロック・ファンを新しい人類と呼び、唯一信じられる存在だと主張した。[1]

 ロック・アーティストが「I LOVE YOU」と歌う時、それは聴き手に言っているのだ、と岩谷宏は断言した。僕はそれを疑うことなく鵜呑みにした。今、自分たちが暮らす社会は自分たちが望む社会の姿からは遠くかけ離れている。僕たちはこの世界をあるべく姿に変えなければならない。ロックは単なる音楽ではない。ロックは世界の変革を指向する。要約すればこんなところが僕が岩谷宏から受け取ったメッセージである。[2]

20世紀後半のサブ/ポップカルチャーに向けてその触手を伸ばしていくずいぶんと前に、集団的な主体のありかの捜索は、この国のエスニシティのマジョリティに錨を降ろしている支配階級を中心として始まった霊験あらたかなナショナル・アイデンティティをしつらえる試みに遡る。十分なそのアイデンティティの形成に必要なナショナリズムと均衡のとれる帝国主義的目的によってその姿をはっきりと顕していったのは“想像の共同体”以外ではなく、上海事変を勃発させることを現実に可能にしたことから理解できるよう、1932年に一旦の完成をみる。それより前、大正のとき、日露戦争――ロシアとの日本の戦争――が終わり、西欧との関係のありようが極度に神経を疲弊させる関係から脱していき、工業化によって近隣との差異が目立ち西欧との差異が解消されていくにつれ、要請された目的に相応しい人造の「日本的」なるものが姿を現す。それは、支配/知識階級からその後増え続ける中間層を含む大衆、労働者階級、その日暮らしの人々までをすっぽりと覆っていった。そして、哲学の精粋と一時崇拝されたテキストから新聞などに連載された小説へ、もしくは“庶民”の郷愁の心を造る最新の流行歌へと流れ込んでいく。

その後の1945年に大きな地滑りのように顕わになった断層とその後の処理、そしてなによりも朝鮮戦争に感謝せねばならぬ経済的な発展が、1950年代、60年代、そして70年代のはじめへとそれまでと明らかに異なった様々なアート/カルチャーへの暫定的な、しかしそれまでになかった空間を提供していった。小説、詩、哲学、それに批評といった伝統的に知識階級を中心とした担い手とされる書かれた言葉によるものから、演劇、(現代)美術、舞踏、遅れてきた映画といったそれぞれエスタブリッシュされた諸形式だけでなく、テレビや漫画、ちょうどこの時期に日本に移ってきたジャズ、ラテン、フォーク、そしてロック音楽までに及ぶ。

また、『ロッキング・オン』ではロック・アーティストのことを論じていながら、山上たつひこの『がきデカ』や永井豪の『バイオレンス・ジャック』、どおくまんの『嗚呼‼花の応援団』といったマンガについて言及されることが多かった。真崎守のイラストが見開きで掲載されたりもした。ロックとマンガを同列に語ったのは当時、『ロッキング・オン』だけではなかったのではないだろうか。そんな風に『ロッキング・オン』にはロックを高尚なものとして扱うのではなくマンガと同じくB級文化として光を当てようという姿勢があったように思う。僕は『ロッキング・オン』のそんなところにも強く魅かれていた。[3]

1970年代半ばまでのポップ・カルチャーとしてのロックが、そのそもそもの生まれ故郷ではっきり帯びていたラディカルな政治的決断を回避しようとする姿勢をこの国の空間の裡でも維持しながら、騒乱の予感をどこかに喚び起こすのは、依然としてそこにも人種と政治が直裁にまつわることに変わりはないからだ。

つまり、『東京のプリンスたち』の透明な描写が私たちを美しく説得するように、アメリカではプレスリーらの挑発から始まるロックン・ロールの人種/階級をめぐっての騒動は、日本でなによりもまず異なる階級性を顕わにし、同時にこの島国で長く隠匿されてきた人種の問題をも不器用に、あらかじめの想定からなら離れた場に顕現をさせた。それが起こった場と人々を、メディア論の山崎隆広氏はジョン・ダワーに倣い「まともな社会からはずれた、社会の周辺部分」であり、そこにいた人々を「はみ出しもの」とする。[4]

なによりもまず占領軍の上陸から始まるが、その事実は日本中に配置されていくアメリカ軍部のベース周辺のストリートという空間を、とりあえずの前線として全国津々浦々へ離散した。第二次世界大戦後、人種の問題は、戦時中に繰り返し念を押された、本土に押し寄せる占領軍兵士を竹槍を手に応撃する日本人男性という組み合わせではなく、昨日まで敵の兵士であったアメリカ人を歓待するだけでなく、愛を交わす日本人女性もしくは男性との組み合わせで起こったのだ。[5]

“パンパン”バーでのいくつかの愛にまつわる追憶を語る無名の女性の口吻を通して今村昌平の映画『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』(1970)に捉えられたよう、まるで彼女と彼女の話し言葉のごとく、しばらくの間はジャズやロックンロールは高等教育で学ぶ正規に書かれた言葉が届かないゆえに制度とされえない空間に浮かんで消えていくだけ、捉えきれないゆえの雑音のようなものでしかなかった。だからこそ『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』のような映像は例外的とされることによって多くの人々の関心を引かなかったし、こうした空間はとるに足らないものと評価されることで意図的に忘れ去られた。


今村昌平『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』(1970)

しかし、ジャズもロックンロールも、内部では公民権運動が巻き起こり、外部ではその政治/軍事の力が共産主義と拮抗しようとする冷戦の裡において、マスメディアと共に世界を覆い引き起こす、相克と引き裂かれのダイナミクスによって世界中の「まともな社会からはずれた、社会の周辺部分」へ離散していき、「はみ出しもの」たちの持てる引き金として作動していった。そのことはECDが愛読した辰巳ヨシヒロの劇画の都市伝説めいた設定も、もしくは石原慎太郎の短編を支えた言葉のリズムも気がついていたし、深沢七郎のプリンスたちの短い、動詞だけの、それでいて決まりの悪い会話はいうまでもない。だからこそ、この国のブルジョワジーが率いる書かれた言葉は、思いもかけず顔が見え隠れする他者の関わっているこの出来事を、いってみるなら“国語”的なパースペクティヴから整理し言葉とアートの絡む時代の“精神性の目標”として再編成を目指す――そのあらましを「日本語ロック論争」と呼んでもいいが、そのことについてはまた別の機会に譲る。

一方、同時代に制作され公開された若松考二監督の映画『性賊 セックスジャック』(1970)についてECDは短くしたためているが、そこではもうひとつの書かれた言葉の起こす齟齬のあらましが描かれている。

 この作品もやはり観たことがあった。一九七七年か七八年のことだ。新宿歌舞伎町のコマ劇場の斜め向かいの地下にあった映画館だったと思う。ほとんどの観客は両足を前の座席の背もたれの上に投げ出している。ロビーでは吉祥寺マイナーなどで何度も観たことがある長髪にサングラスの男を見かけたりした。〔……〕主人公である鈴木の部屋に潜行した男三人と女一人、そのうちの一人の男が裸電球に向かってつぶやく。
「我々の苦悩と努力が歴史上唯一の革命的歴史を展開する時に至って、果たして苦悩が苦悩足り得たか……。それは誰にも分からない。ただ、我々の哲学的洞察の見渡す限り、我々の苦悩以外のあらゆる苦悩は、苦悩するに値しないことだけが分かっている」この難解なセリフのあとに、「みんな、風邪ひくなよ」と言って灯りが消される。このシーンはもう場内爆笑だった。[6]


若松孝二『性賊 セックスジャック』(1970)ポスター

言葉が、すぐ前に目に見えるものや周囲から耳に聞こえるものに必ずしも合致しない風景は、1960年にたった数日間上映されたという大島渚の伝説的な『日本の夜と霧』にも登場し人々を右往左往させる支配的な要素だが、その10年後の若松の『性賊 セックスジャック』においてこの悲喜劇は過激に反復されながら限界まで上昇していく。

「他人に裏切られるより早いスピードで自分を裏切らなければ人殺しひとつ犯罪ひとつできしない。バラ色の連帯、それはまず裏切る自分を殺し、同志を殺してゆくスピード以上の冷徹な力が相集まること。その自分だけの力を相集まった力と同等に信じること。裏切る以上に強いことを知ること、そうすれば死ねる!」
 それまで自発的には語ることのなかった鈴木のこの独白によって、この映画の中で彼以外の登場人物達が吐いてきた政治的言説の全てが改めて無に帰すのだった。[7]

そもそもは歴史的な人物によって書かれた立派な本から引用されたかも知れない言葉は、既に伝言ゲームの終わりに明かされる台詞のように説明にならない。それらの立派な言葉はいつの間にか誰もが“正解”を知っているはずなのにあっけらかんと流布していく誤訳やスラングと同様に私たちの日常に深く浸透し、馴染みのあるものがたいして役に立たないガジェットのように、いつもの暮らしがなされている時間/空間さえ埋め尽くしていく。少なくとも大島渚の『日本の夜と霧』(1960)では、それぞれの言葉といちいち風景が食い違っていく現象が過去から掘り起こされ、混乱が収束していないどころか、結婚披露宴という正式な空間でも依然として途切れることなく持続していることが暴露され、また『性賊 セックスジャック』に登場する革命家たちというなら、なすがままに振る舞おうとする言葉が自分たちに侵食していく様子にまだ気がついているのかどうか覚束ないのだ。その、あたかも自分自身さえもが間違った無数の言葉によって構築されているかのような、どうにもはっきりしない感覚が肢体を麻痺させていくまさにその最中、いくつもの言葉が、まるで主体に逆らうかのように言葉同士の間で主導権を巡って争い始める。それは大島渚や若松孝二が空から思いついたのではなく、メディア経由での主体の言葉が人を操るかのように始まっていく空間自体が、既に至るところで現れていたから映像として遺されたとしたら。例えば、1967年に始まった漫画『天才バカボン』で繰り返される「賛成の反対」という一声から始まり、限りなくずれていく“ナンセンス”な風景のように。もしくは1970年代の万博からの「ディスカヴァー・ジャパン 美しい日本と私 」という主体と場をめぐる、キャッチコピーから始まる騒動のように。

1970 国鉄 DISCOVER JAPAN(YouTubeより)

 七四年の夏のある日、僕はタンジェリン・ドリームの『フェードラ』を聞いた。それは全く新しい種類の音楽体験だった。父は仕事、母も何かの用事で出掛け弟も家にはいなかった。一日で一番暑い午後二時過ぎだというのに、僕は家の窓や戸を閉め切って、可能な限りの大音量で『フェードラ』を聞いた。家には冷房などなかったから閉め切った部屋は蒸し風呂のようだった。大音量といっても再生装置はその時はまだ父が買ってきたポータブル・プレイヤーのままだった。たかが知れている。それでも、『フェードラ』のまるで自分の血液の流れる音を増幅したような規則的な電子音の反復に包まれて僕は完全にトリップした。[8]

 初めてレゲエを聞いたのも七四年だった。〔……〕タンジェリン・ドリームにもレゲエにも共通して感じたのは残響音が造り出す「空間」だった。僕は『ロッキング・オン』流の観念的なロックの聞き方だけに飽き足らず、タンジェリン・ドリームやレゲエを通じて、もっと肉感的な音楽の聞き方に目覚めつつあった。[9]

 

[1] ECD『いるべき場所』メディア総合研究所、2007年、p. 38。
[2] 同前、p. 39。
[3] 同前。
[4] 山崎隆広「雑誌と〈敗北〉 『試行』と『ニューミュージック・マガジン』、サブカルチャーの中のイロニー」『群馬県立女子大学紀要』39号、2018年。
[5] 同前。
[6] ECD『何もしないで生きていらんねぇ』本の雑誌社、2011年、p. 164。
[7] 同前。
[8] ECD『いるべき場所』、p. 39。
[9] 同前、p. 40。

荏開津広

Hiroshi EGAITSU
執筆/DJ/PortB『ワーグナー・プロジェクト』音楽監督。立教大学兼任勤講師。90年代初頭より東京の黎明期のクラブでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。