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2021.10.07

03 アメリカ兵への憧憬
窪田登とボディビルとの出会い

竹﨑一真

田鶴浜が、戦後のプロレスブームをアメリカに対する日本男性のコンプレックスの表れとしてみていたように、ボディビルの出現も同様の情動の中で展開した。その当時の様子が、日本ボディビル連盟(旧日本ボディビル協会)が設立50年を記念して出版した記念誌の中で次のように書かれている。

昭和20年8月、日本はかつて迎えたことのない敗戦にさらされた。明治維新以来一貫して推進してきた“忠君愛国”のモラルも富国強兵の国策も、一挙に崩壊し、日本人は一時期、完全に虚脱状態に置かれた。精神的には腑抜けた状態になったのである。当時の日本人の面前に続々と乗り込んできたのは、占領軍のアメリカ兵たちだった。彼らはとにかく明るく陽気でエネルギーに満ち、肉体はたくましかった。〔中略〕彼らと接触した多くの日本人たちは、わが身の貧弱さに比べて筋肉隆々とした洗練された肉体美に羨望のまなざしを向けるだけでなく、勝者と敗者の関係も相まって劣等感を抱いたものであった。しかし、一部の日本人は彼らに追いつきたい一心でアメリカ兵たちから身体作りとしてボディビルの手ほどきを受けた。その者たちを中心に知らぬ間にボディビルの愛好者が増えていくのであった。(日本ボディビル連盟50年の歩み,2015,p.10)

日本のボディビルは、アメリカ兵の肉体に魅せられた男性たちによって草の根的に誕生した。しかもそれは単なる日本のアメリカ化によるものではなく、勝者と敗者の関係も相まった肉体コンプレックスというナショナルな問題を背景に持っていたのである。


初期のボディビル愛好者とアメリカ進駐軍兵
出典:『日本ボディビル連盟50年の歩み』,2005,p.10.

岡山県倉敷に住んでいた当時14歳の窪田登も、アメリカ兵の肉体に魅せられた男の一人であった。

窪田がボディビルに魅せられたのは1946年、彼が15歳のときであった。最初に影響を受けたのは長兄・窪田誠一からであった。誠一は、吉備商業学校在学中に岡山拳闘クラブに通い、そこでクラブコーチの朴章鎬からボクシングとウェイトトレーニングを学んだことがきっかけで、倉敷の自宅に「東洋体育研究所倉敷支部」という名のボクシング兼トレーニングジムを開設していたのである。また兄だけでなく、父親が剣道家であったことも、窪田が幼いころから肉体を鍛えることに抵抗なく入り込めた要因の一つであった。

しかし、それでもなお彼のボディビルへの道を決定づけたのはアメリカ兵の存在であった。彼はそのことを次のように綴っている。

1945年8月15日、太平洋戦争は終結をみた。確かこの年の10月だったかと思うが、岡山へアメリカ兵が駐留した。彼らはジープに乗って倉敷によく遊びにきた。その彼らの中にひときわ体格のよい兵隊がいた。私はその彼がボディビルディングで筋骨隆々のからだをつくり上げたという事実を、身ぶりで知った。そのトレーニングは私がずっと兄のまねをしてやってきた運動そのものであったのだ。これがきっかけになって、私はこのトレーニングをそれ以後ずっと続けていこうと堅く心に誓った。(窪田,1998,p.19)

窪田にとって、逞しいアメリカ兵との出会いは衝撃的なものであった。それまでの窪田にとってのトレーニングは、ウェイトリフティングという、いわばスポーツのためのトレーニングであった。ところが、アメリカ兵との出会いは、トレーニングだけでなく、逞しい肉体そのものに魅力を抱くきっかけとなったのである。

それから5年後の1950年4月、窪田は早稲田大学(以下、早大)へ進学することになる。ところがその上京の際、再び衝撃的な場面に遭遇することになった。

ある日の昼間のことであった。窪田が外食券食堂 [1] で食事をとっていたとき、ある男の浮浪者がその食堂にやってきた。するとその浮浪者は、誰かの食べ残しを見つけるやいなや、その碗に武者ぶりつき、むさぼり食べたのである(窪田,1998,p.66)。当時の東京は復興の兆しが見えていたが、それでも貧困の時代であったことには変わりなく、街には多くの浮浪者がたむろしていた。窪田がそんな日本男性の姿と、倉敷で出会ったあの逞しいアメリカ兵の姿に何を思い考えていたかは想像に難くない。

さて、早大に進学した窪田であったが、実は早大にはまだボディビル部もウエイトリフティング部も作られていなかった。そこで窪田が東京の練習場所として見つけたのが、当時御茶ノ水駅付近にあった日本体育協会(現・日本スポーツ協会)である。そこの庭にウェイトリフティング用のバーベルが一組用意されていたのであった。これらの用具は当時、日本にほとんどなく、ウェイトリフティングやボディビルを志す者にとっては、極めて貴重であった(窪田,1998,p.67)。

窪田にはもう一つ重要な場所があった。それは、御茶ノ水からほど近い神田神保町の露店である。神保町の露店にはアメリカ軍基地から放出された品が販売されていたのだ。窪田がそこで探していたのは、アメリカで発売されたボディビル雑誌の中古本である。

ある日たまたまそこを通りかかった私は、それこそ偶然にだが、リチャード・クラインが書いた小冊子“Body Building with Barbells and Dumbbells”を手に入れた。これに味を占めた私はしばしば露店通いをして、駐留軍から放出されたと思われるアメリカのウェイト・トレーニング専門誌“Your Physique”とか“Muscle Power”“Muscle Builder”などを購入した。これらの雑誌はアメリカで15セントで売られていた。当時1ドルが360円の時代だから、日本円にして54円である。これが所々破損した古本であるにもかかわらず、1冊300円くらいで売られていた。外食券食堂では、昼食に70~80円かければよかった時代だから、この雑誌の代金は一学生にとってかなり高いものだった。(窪田,1997,p.68)


窪田が露店で購入した雑誌“Body Building with Barbells and Dumbbells”
出典:窪田,1997,p.68.

窪田はこうしたアメリカのボディビル雑誌を読むことによって、最新のトレーニング知識と技術を身につけていたのである。それらの知識は、後に窪田によって「ボディビル理論」として、組織化されていくボディビルクラブや日本のトレーニング雑誌の中で複製されていくことになる。いわば、窪田と雑誌との出会いは、日本のトレーニング技術の刷新を意味するものであり、トレーニング技術史上、極めて重要であったと言えるだろう。

このように窪田は、戦後、誰よりも早くアメリカからボディビルの知識を得た人物であったわけであるが、実は窪田は日本代表としてボディビルの国際大会に出場する初めての人物でもあった。

1951年、窪田はインド・ニューデリーにいた。そこで開催された第1回アジア競技大会にウェイトリフティングの日本代表選手として出場するためであった。ところが、奇しくも同日に、主催国であるインドがアジア競技大会のオープン競技としてボディビル大会を開催したのである。

1951年当時、インドやイラン、シンガポール、ビルマでは、日本よりも先にボディビルブームが訪れており、ボディビル大会もそれぞれの国で盛んに行われていた(窪田,1997)。それがきっかけとなって開催されたのだ。そしてこの大会は、ウェイトリフティング競技の試合後に同会場で行われたこともあって、出場者はほとんどがウェイトリフティングに出場していた選手たちであった。ゆえに窪田が、思いがけず初のボディビル日本代表選手となったのである(この大会には、窪田のほかに井口幸雄も参加していた)。

このような経験をした窪田は、ボディビル大会を日本でも開催しようと奔走する。そして翌年1952年10月23日にミスター日本コンテストの開催にこぎつける。

場所は福島県平市の平公会堂、第7回国民体育大会のウェイトリフティング競技大会に合わせて開催されることになった。この大会は、日本重量挙協会福島県支部と平市の共催、および読売新聞社の後援という形で開催され、東京、栃木、岡山、愛知、神奈川、宮城、福岡を代表するウェイトリフティング選手とオープン参加の選手含めて総勢19名が参加した。翌日の読売新聞が「観衆が約2000名。その三分の一が女性」(読売新聞,1952年10月24日)と報じたように、大会自体は盛況だったことが伺える。

大会の進行は、ミスター・アジア・コンテストの要領に準じて、すなわち「上腕二頭筋、上腕三頭筋、前腕諸筋、僧帽筋、大胸筋、腹筋、背筋、三角筋、大腿四頭筋、大腿二頭筋、下腿三頭筋の11の筋の発達を示すポーズをとる他、自由ポーズによるポージングで筋の発達や均斉を採点する」(窪田,1997,p.171)という方法で審査が行われた。しかしながら、窪田以外の出場者にとっては初めてのボディビル大会であり、また審査員も中西一路(画家)や野々山三郎(磐高校校長)、吉屋貞一(評論家)、竹林定男(医師)といったボディビルはおろか体育・スポーツにおいても専門外の人々から構成されていたため、大会としては未熟なものであった。なお、窪田はこの大会で優勝し最初のミスター日本となっている。


ミスター日本コンテストでポージングをする窪田
出典:窪田,1997,p.172

[1] 戦後の米の統制下において、政府によって発行された食券所有者に食事を提供するよう指定された食堂。

竹﨑一真

Kazuma TAKEZAKI
成城大学グローカル研究センターPD研究員。専門は、スポーツ社会学、カルチュラルス・タディーズ。
論文に、「男性高齢者の老いゆく身体と身体実践」(『スポーツ社会学研究』23巻1号、2015)、「身体とジェンダーの系譜学的思考」(『現代スポーツ評論』41巻、創文企画、2019)、「戦後日本における男性身体観の形成と揺らぎ」(『体育学研究』64巻、2019)「戦後日本における女性身体美文化の系譜学的研究」(『体育学研究』65巻、2020)など。著書に、『日本代表論』(分担執筆、せりか書房、2020)。共翻訳書に、マーゴ・デメッロ『ボディ・スタディーズ』(晃洋書房、2017)など。