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2021.10.14

04 玉利齊と早稲田大学バーベルクラブ

竹﨑一真

窪田のもたらしたボディビルは、いわばアメリカやアジアといった“外国”由来のものであったが、日本で草の根的に生じたボディビル文化は、「早稲田大学バーベルクラブ」(以下、バーベルクラブ)の誕生を端緒としていると言ってよいであろう。そして、その中心にいたのが玉利齊である。

1952年に早大に入学した玉利は柔道部に所属した。当時の早大の体育館には、柔道場の他にレスリング部の練習場が併設されており、両部はよく交流していた。玉利もレスリング部の練習風景をしばしば観察し、何か柔道に生かせるものはないかと探しながら練習を行っていた。

するとある日、現役学生に交じって40歳前後にもなろうかという中年男性が練習に参加していることに気がつく。その男性は、いつも練習後になると必ず鏡の前でバーベルやダンベルを使ってトレーニングを行っていた。玉利は、その男性が行っているトレーニングに興味を抱き、近づいていく。その男性は、後にバーベルクラブの顧問となり、日本ボディビル協会初代理事長を務める平松俊夫である。玉利は平松との出会いを次のように回想している。

現在のボディビルダーのレベルから見たら目立つ程ではありませんが、私は広い肩幅、厚い胸、太い腕にびっくりし、しかも青年でなく中年でなおそれだけの体格を維持していることに驚き、そのOBの前に歩みより、「先輩、凄い体ですね。重量挙のトレーニングですか」と尋ねかけました。「いや重量挙競技ではありません。これはボディビルディングといってどの様にして筋肉を発達させるかという体作りのスポーツなんですよ」と親切に教えてくれました。「私の様な痩せた体の者でも出来るんでしょうか」と問いかけたところ、「出来るとも。むしろ君みたいに体力に自身の無い人がやることにボディビルディングの意味があるんだよ」といってくれました。「干天の慈雨」という言葉がありますが、その時の私の心境はまさにその通りでした。(玉利,2005,p.13)

平松の逞しい肉体に驚き、ボディビルという存在が玉利にとって「干天の慈雨」であったのは、玉利も他ならぬアメリカ兵の肉体に憧れ、戦後日本人男性の肉体にコンプレックスを抱いた一人だったからである。

玉利は戦争中、田舎に疎開しており、実家のある東京に戻ってきたのは、GHQが占領政策を展開している真っただ中であった。焼野原になった東京に戻ってきた玉利の目に映ったのは、雲をつくような大男の進駐軍兵たちであった。彼らは姿勢がよくてたくましくて、明るかった。一方、その頃の日本人は、姿勢が悪く、痩せて青白かった。

そんな様子を見た玉利は、「日本は新しい文化国家・平和国家としてこれからやっていかなきゃいけない」にもかかわらず、「それがひ弱で、食うや食わず痩せこけていたんでは、日本が新しく平和国家を築こうなど、とても出来るものではない」と子ども心に感じたと語っている(玉利,2017,p.7)。それゆえ、大学で初めて出会ったボディビルは、玉利にとって、自らの、そして日本人男性のコンプレックスを払拭する慈雨のように映ったのである。

玉利は、これを機に平松にボディビルの指導を依頼し、レスリング部や柔道部の部員数名とともにトレーニングを行い始める。ところが翌年1953年になると、運動部ではない一般学生もこのサークルの活動を聞きつけ、数名が参加するようになるなど徐々にその規模が大きくなっていった。そこで玉利は、この活動を大学の正式なクラブ組織として立ち上げようと奔走する。こうして同年に設立されたのが「早稲田大学バーベルクラブ」であった。日本で初めての組織化されたボディビルクラブの誕生である。玉利はクラブの初代主将となった。

こうして正式なクラブとして認められたバーベルクラブには、多くの男子学生が集まり、翌1954年には総勢200名を超える大所帯クラブとなった。そしてバーベルクラブは、部を運営するにあたって三つの理念を掲げた。第一は、日本にまだ発達していないボディビルを競技として普及すること、これは言わばボディビルのスポーツ的側面における普及である。第二は、スポーツの競技力向上のためのボディビルとして普及すること、そして最後が健康づくりのためのボディビルとして普及することである。これら2つは、ボディビルの体育的側面における普及だと言えるだろう。この点について、『日本ボディビル連盟50年の歩み』には、次のようなことが書かれている。

バーベル部創設時の部員たちが共通の思いとして、その当時の日本スポーツ界の風潮であった、勝負や記録のみを目的として底辺の一般大衆を忘れた選手中心主義や、スポーツは学生時代の一時期の思い出しかなく実社会との断絶という現実に対する批判精神が多分にあったようだ。我々は社会に生かす健康な心身をボディビルによってつかみ、かつ一生を通しての健康管理をボディビルで行うのだという信念に基づいていたのだ。(日本ボディビル連盟,2005,p.14)

玉利やバーベルクラブの部員たちが示したこのようなボディビルの理念には、おそらく彼らの戦後体験が大きく影響していたと思われる。すなわち、明るく逞しいアメリカ兵と暗く痩せて青白い日本人男性という相反する姿に感じた屈辱と背中合わせの羨望が、彼らのボディビルへの大きな誘引となっていたのである。

そしてバーベルクラブは後々、大学の枠を超えて、「日本における新しい体育の方法としてのボディビルを発展させる牽引車」(日本ボディビル連盟,2005,p.14)としての広く活動するようになる。


早稲田大学バーベルクラブの部員たち
出典:『日本ボディビル連盟50年の歩み』,体育とスポーツ出版社,p.13.

最後に

ここまでの3回にわたって辿ってきた三名の歩みは、敗戦・占領に対するコンプレックスからくる逞しい肉体への強い憧れという同じ意識をもっていたが、彼らは全く異なる背景のなかでボディビルという文化にたどり着くようになる。次回は、彼らを含め、ボディビルという人脈がどのように結びつき、そのネットワークのなかからボディビルを日本に展開させていくような磁場を形成するのかを辿ることとしたい。

竹﨑一真

Kazuma TAKEZAKI
成城大学グローカル研究センターPD研究員。専門は、スポーツ社会学、カルチュラルス・タディーズ。
論文に、「男性高齢者の老いゆく身体と身体実践」(『スポーツ社会学研究』23巻1号、2015)、「身体とジェンダーの系譜学的思考」(『現代スポーツ評論』41巻、創文企画、2019)、「戦後日本における男性身体観の形成と揺らぎ」(『体育学研究』64巻、2019)「戦後日本における女性身体美文化の系譜学的研究」(『体育学研究』65巻、2020)など。著書に、『日本代表論』(分担執筆、せりか書房、2020)。共翻訳書に、マーゴ・デメッロ『ボディ・スタディーズ』(晃洋書房、2017)など。