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2021.12.30

『タール1ミリのメンソール』

豊田道倫

中南海のタール1ミリのメンソール。
この煙草しか吸いたくない。なかなか売っていない銘柄で、自宅から距離は少しあるが新世界の煙草屋まで買いに行く。
通天閣の下にある煙草屋。
いつもパンチパーマの愛想の良いおばちゃんがカウンターの奥に立っている。
「パンチパーマの大阪のおばちゃん」と言えば、青木雄二の漫画『ナニワ金融道』に出てくるようなえげつないおばはんを想像すると思うが、彼女の派手な服のさり気ない上質さと、それをまとう肌質が良いことは何度か通っているうちに気づいていた。それなりに自分も歳を取ったということだろう。
時々彼女の代わりに立っているのはおそらくご主人だろう、背が高くいつも正装していて髪を綺麗に撫でつけている。
煙草屋はコロナ禍であることはあまり関係ないのだろうか。
実情を知る術はないが、きっと良い家に住んでいて仲の良い夫婦だなあと思う。

そのすぐ近くの純喫茶は最近急に人気が出て満席の時もあり、よく店の前でお客さんが並んでいる。若者達の間で純喫茶ブームというものがあるらしく、女子達がわらわらと集まって、メロンソーダなんかを写真に撮っている。店の外観も蔦が絡まっていて、確かに本物のレトロな喫茶店で雰囲気はある。
コロナ禍となってからは、観光地でもあった新世界は閑古鳥が鳴く店、閉めた店も多い中で、この喫茶店だけはずっと賑わっている。
店で働いているのは3人の高齢のおじさん達で、それは人気店になってからも変わらない。
普通の喫茶店だが圧迫感がなく過ごしやすいので、なんとなく入っていた店だった。
最近は昔からの地元のお客さんは入りにくくなっているのかもしれないが、今日は夕方という時間もあってか、席は空いていてすぐ入れた。窓際の好きな席に座れたのもラッキーだった。

ホットコーヒーを注文した。ホットケーキも食べたかったが太りやすいので、我慢した。ここのホットケーキはなかなか無骨な形で、おじさんが一生懸命焼いている感じが良い。饅頭のような厚みがある。
煙草を吸いながら、窓の外を見る。
100メートルほど向こうに廃墟のような建物がある。
そこは連れ込み宿だった。
今はもう営業していないが、この間前を歩いたら猫が何匹かいて、どうやらみんな保護猫のようだ。みんな耳先をカットされている。
連れ込み宿の玄関から中に猫がいるのも見えた。
誰かがちゃんと管理して飼っているらしい。餌箱もそれぞれの猫ごとに置いてあった。
時代も年号も変わって、往時は様々な情事に使われていた建物が今は猫屋敷となって残っている。
元経営者か誰かが住んでいたりするのだろうか。
何度か前を通っても人影は見たことがない。
猫の世話は餌やトイレなどそれなりに大変なはずだが。
今日も誰も見ないなと思いながら、ふと、記憶の沼底に閉まっていた出来事が蘇ってしまった。
連れ込み宿で、あったこと。
あれはもう30年ほど前のことになる。

 

深夜の新世界を歩いていた。何をしていたのだろうか。よくぶらぶらしていた街ではあった。当時は映画館も何軒かあって、時間を潰していたのか。
90年代初頭は欧米から毎月のように凄いバンドがデビューして、来日公演も行なっていた。もちろん全てを追っかけることは不可能であったが、レコード、雑誌を買い、ライブに行くのが青春の全てだった。音楽が世界の若者を熱狂させて、それに他のカルチャーがついていくのが精一杯の時代だったと言うのは。今となっては夢物語に聞こえるかもしれない。
その煌めきの世界とは反する場所、西成や新世界のおっさんにしかない空気になぜか惹かれていた。友達とつるむことが殆どなかったせいかもしれない。今みたいにネットも携帯電話もなく、孤独な時は本当に孤独だったが、それも今となっては贅沢なことに思える。
街の底や、街の陰に惹かれていた。
そんな時、真夜中に近い時間にこの連れ込み宿の前の狭い道に『彼』が立っていた。
『彼』はパッと見てわかる女装の男だった。
見るからに男娼で誘いの笑みをくれて、どういうわけか立ち話などして、宿に入った。
その時、自分は酒を飲んでいたのか、終電を逃してどのみちどこかで朝まで過ごさなくてはいけないので仕方なしだったのか、『彼』の妖気に身体が反応したのか。
正確には覚えていないが、ひとつ言えることはその時は交渉などの話はしておらず、ただ、遊んでよ、ということだけだった。さり気なくそういう流れになっていたのは不思議だが、特に躊躇しなかったと思う。
宿に入り、案外広い和室に通され一服してから、風呂に入ることを勧められて、『彼』から性的サービスを受けた。性技はそこらの女性より抜群に巧くて恥ずかし気もなく悶えてしまい、あっという間に果てた。飲精をした時の『彼』のギラッと光った眼をまだ覚えている。

『彼』は細く長い煙草を吸っていた。
「可愛がっている男の子が家にいるの。ボクシングをやっていて大変だから、ちょっとお金もらえる?」
そう切り出されて、これが本来仕事のはじめに行われる交渉なのかと思う間もなく、少しだけ支払った。それでも『彼』から「ありがとう」と丁寧にお礼を言われた。お札を綺麗に財布にしまっていた。
そして、何度も「身体には気をつけてね」と言われた。当時二十歳過ぎの自分にそんなことを言うひとはいなかったので、そのことは後から妙によく思い出したりした。
やたらと身体を気遣う『彼』が煙草を吸っているのを見て、「でも、煙草吸ってるやん」と『彼』に言ったと思う。
「これはメンソールでタールは1ミリなの」と、NEXTという煙草だと教えてもらった。当時、煙草は滅多に吸っていなかったが、タール1ミリの煙草なんて吸う意味あるのかなと思った。まあ、格好だけで吸いたいひともいる。
『彼』が出て行ったのは午前1時半とかではなかったか。
それからの時間が地獄だった。
男を買春してしまったこと、男に悦びを与えてもらったことで激しい後悔と屈辱にまみれてしまって、どうしようもなくなった。
自分がいる部屋の邪悪な空気に胸が詰まりそうになった。
今なら「それくらいのことしとかないとあかんよ、いい勉強したやないか」と軽く言えるが、当時はまだまだ純朴だった。
テレビをつけてもひとつの番組しかやっていなかった。それがどこか地方の高校生の部活を追ったドキュメンタリーで、その美しい光景と自分の行動の落差に余計に心が傷ついた。
一睡もせず、ようやく始発電車が走りそうな時間を迎え、逃げるように宿を飛び出した。

 

回想しながら、こんなアホな人生を生きてきて、おれも長生きしたもんだなあ、と呆れてしまった。気を紛らわすためにコーヒーをお代わりしてヤケクソでホットケーキでも食べようと思ったが、店は満席で注文も殺到しているようだったので会計を済ませた。
もう、日は暮れかかっていた。
店内は純喫茶巡りの若者だけではなく、地元の人達も来ていて少し安心した。
この街は色んなことがあっても、そう簡単に変わらない。
生きることの必死さ、切なさ、悲しさ、楽しさなどをつかの間誰かと語り合ったり、ひとりで思いに耽ったり出来る場所がある限りは。
喫茶店にいる間、結構煙草を吸ってしまったので、あと一箱買っておこうかと思いさっきの煙草屋に向かったが、店はもう閉まっていた。

豊田道倫

とよたみちのり

1970年生まれ。1995年にTIME BOMBからパラダイス・ガラージ名義でCDデビュー。以後、ソロ名義含めて多くのアルバムを発表。単行本は2冊発表。

2021年はCDとトートバッグ『春のレコード』、雑文と日記と未発表曲歌詞を集めたZINE『キッチンにて2』を自身のレーベル【25時】より出版、アルバム『たくさん、ゆっくり、話したい』、シングル『ストロングゼロ・ガール』をデジタルCDリリース。

photo by 倉科直弘