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2021.08.26

01 AV前史[前編]
ポルノ誕生からブルーフィルムへ

安田理央

1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。

ポルノ映画の誕生

新しいメディアが生まれると、そこに性的なコンテンツを入れたくなるというのが、人間の本能のようだ。

1839年にフランスの画家であるルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが公表した銀板写真法=ダゲレオタイプが、実用的な写真術の始まりだとされている。

そしてその数カ月後には、もうヌード写真が撮影されたというのだ。

それは映画においても同じであった。1893年に発明王トーマス・エジソンが、木箱を覗き込んで映像を見る形式のキネトスコープを発明。続いて1895年にはフランスのリュミエール兄弟がスクリーンに映写し、多くの人が鑑賞できるシネマトグラフを発明し、パリで有料上映会を開催した。これが映画の元祖と言われている。

その翌年にはキスシーンを撮影した『ザ・キス』という映画が上映された。これはミュージカル『未亡人ジョーンズ』の最後のキスシーンを撮影したものだったが、カトリック教会などから不謹慎だと抗議を受けて公開禁止となっている。

これを製作・配給したのは、エジソンの会社だった。世界最初の映画製作会社であるエジソン・スタジオはこの時期に見世物的要素の強い映画を多数作っている。

そして1897年には、後に『月世界旅行』などでSFXの創始者と言われるジョルジュ・メリエス監督が『舞踏会のあとの入浴』(Apres le bal)を撮る。

メイドが貴婦人の服を脱がせて、お湯をかけるというだけのショートフィルムで、実際には女優は後ろ向きで薄い布を着ていてヌードではないし、お湯も砂なのだが、その豊かな尻の形状ははっきりと見て取れる。

これ以前にもヌードを撮影した映画はあったようだが、フィルムが現存する作品としてはこれが最古の「ポルノ的映画」である。

以降、女性の脱衣と入浴を描いた映画が多く作られることになる。

それから10年後の1907年には、アルゼンチンで『エルサタリオ』(El Satario)という映画が撮られた。6人の女の子が、なぜか全裸で山の中で遊んでいると角と髭を生やした悪魔が現れて襲いかかる。女の子の一人が捕まって犯されてしまうのだが、フェラチオやシックスナイン、様々な体位での本番行為とハードコアポルノそのものの内容なのだ。局部のアップもあり(画質が悪いため、よく見えないが)、射精された精液がこぼれ落ちる様までしっかり見せる。


『エルサタリオ』(1907)

『エルサタリオ』は世界最古のハードコアポルノ映画のひとつだ。疑似ヌードの『舞踏会のあとの入浴』から、わずか10年でポルノ映画はここまで過激化していたのである。

この時期、アルゼンチンはポルノ映画のメッカであり、多くの作品が作られ、ヨーロッパに輸出された。やがてフランス、イタリア、ドイツなどでもポルノ映画の製作は盛んになっていった。

戦前のブルーフィルム

日本に映画が輸入されたのは1896年(明治29年)のことだ。リュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した翌年である。1897年には一般公開もされている。

明治の終わりには、ソフトなヌード映画も輸入されている。

日本最初の映画評論誌「キネマ・レコード」を創刊するなど日本の映画評論家の草分けでもある映画監督・帰山教正が1928年に書いた『映画の性的魅惑』(文久社書房)によれば、当時は検閲もなく浅草の常設館でも映写されたらしい。「外國人は隨分露骨なもの位にしか考へていなかったのである」と言うから、まだ何かと寛容な時代だったのだ。

そして大正時代に入ると本格的なポルノ映画も秘密裏に上映会が行われていたようだ。

永井荷風が大正5年に書いた小説「腕くらべ」の中にも「近頃は活動もさつぱり面白いのが有りませんね。もういつかのやうな会員組織の、猛烈な封切はないでせうか」という秘密上映を指すような会話が出てくる。

『映画の性的魅惑』にも、こんな記述がある。

大正のはじめ頃、桜夜会という会員組織で秘密映画を観る会合が催されたことがあった。前後三回ほど行われたが遂に検挙された。これがこうした映画の鑑賞会の最初だったのかもしれない。
その後こういう会合が時々極秘のうちに行われ遂に日本でも撮影されるということになったが、その都度ほとんど検挙されている。
(※筆者が旧仮名遣いを現代仮名遣いに直した)

このように国内でポルノ映画が初めて製作されたのは、大正時代とも言われているが、盛んになったのは昭和の初頭あたりからだ。

こうした非合法のポルノ映画は当時は猥褻映画、エロ映画などと呼ばれていた。

はじめは会社のオフィスなどを利用して秘密上映会が開かれていたが、そのうち料亭の奥座敷を使うようになった。こうした上映会の客には大会社の社長や有名医師、有名俳優などもいたという。

やがて繁華街などで、これぞと思う客に声をかけて秘密上映会に呼ぶという商売も生まれていく。

こうした映画に出演していたのは、売春婦や芸者、不良少女などで、本職の映画女優などはほとんどいなかった。

一方、男優の方は、ヤクザ者や不良少年の他、人力車夫やボクサーくずれなど体格や体力に自信があった者が起用されたようだ。


ブルーフィルム作品(作品名、年代不詳)

現代風俗研究家の長谷川卓也の『いとしのブルーフィルム』(青弓社※『ぶるうふいるむ物語』三木幹夫名義、立風書房の改訂本)には、制作に関わっていた男による証言が掲載されている。

Fは、秘密撮影の現場に立ち会ったこともあり、その記憶によれば、一本撮るのに一週間はかかったそうだ。男優にはペパーミントを飲ませたり、生卵を飲ませたりしておかないと持続できない。へたすると、一日で仕上げるべきものが、四、五日かかってしまう。そうすると、場面が違ってしまって、編集がうまくいかないという。
「だいたい、私の体験では、どんなことをしたって男のものってェのは十五分はもちませんよ。どうも男役のほうが、思うようにいかないのが泣きどころでね。その点、女のほうは便利なもんで……」とFは苦笑していた。出演者以外のスタッフは、活動写真屋くずれを入れて、だいたい四人くらいだったそうだ。

この当時から考えると、現在のAV男優というのは格段の進化を遂げていることになる。これはAV女優においても同じことだが。

驚かされるのは、昭和初期の段階でポルノアニメが作られているという事実だ。
『すヾみ舟』というタイトルのこの作品は、黎明期のアニメーション作家である木村白山がたった一人で3年の歳月をかけて作り上げたものだった。内容は江戸時代の隅田川の川開きの夜を舞台に、お嬢さんとその乳母の二人の女性のそれぞれの痴態を描いたもの。

10分ほどの作品だが、当初は二巻物として構想されたものの、一巻の完成直後に当局に押収され、幻の作品となってしまった。それでも、押収された原盤の35ミリフィルムを複製した16ミリフィルムがヤミに流れ、密かに流通した。

長谷川卓也は終戦直後に偶然この『すヾみ舟』を観る機会に恵まれており、「いまどきの洗練されたカラーアニメに比べたら、稚拙のひとことに尽きるかもしれない。しかし、細部はともかくとして、筆者にもいまだに強く印象に残る場面がいくつかあるというのは、やはり並々ならぬ作品といえよう。純日本情緒を漂わせ、ほのかなユーモアをまじえた作者の浮世絵タッチの構想は、みごとであった」(『いとしのブルーフィルム』)と感想を記している。

長らく幻の作品と言われていた「すヾみ舟」だが、2017年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)へと35ミリフィルム版が寄贈され、その存在が確認された。ただし非公開となっており、残念ながら観ることはできない。

ブルーフィルムの隆盛と衰退

そして戦後、ブルーフィルムは黄金期を迎える。終戦から2年後の1947年頃には、もう上映会をする業者が登場していた。一部の指定店以外では営業を禁止する「飲食営業緊急措置令」が発令されていたが、それでもこっそりと営業している店もあり、そうした料亭などで上映会は行われていたようだ。

上映されるのは、もちろん戦前の国内外の作品で、吉行淳之介の体験談によれば、鑑賞料はひとり500円ほどだったと言う。この頃、公務員の初任給が540円であったことから考えると、かなりの金額だが、それでもその会は満員だったそうだ。

戦後最初に撮影された作品は1948年の『情慾』(「強盗」の別名もある)だと言われている。京都で作られたこの作品は空き巣に入った復員兵が女学生を犯すという内容。主演の女優は映画会社のスターにしてやるからと騙されて出演し、その後自殺してしまったと伝えられている。

50年代に入ると、「シキ」と呼ばれる常設館も登場。浅草から吉原にかけて100軒もの秘密の常設館があった。こうしてブルーフィルムは新作が次々と作られるようになる。


ブルーフィルム作品(作品名、年代不詳)

そんな中でも、最も有名な作品が1951年の『風立ちぬ』だ。潮来を舞台にした情緒あふれる作品で、ブルーフィルムにも造詣が深かった野坂昭如はこの『風立ちぬ』と『柚子っ娘』を二大名作と評している。この両作品を撮影したのは高知の制作グループで、監督は「土佐のクロサワ」「ブルーフィルムのクロサワ」などと呼ばれ、その後も数々の名作を撮り続けた。特に『戦国残党伝』という作品はマルチカメラ撮影や即席クレーン撮影まで取り入れた時代物の大作であり、監督本人もベスト1作品に挙げている。

しかし60年代に入るとブルーフィルムも作品の質が低下していくようになる。そのきっかけは1957年に施行された売春防止法だった。売春業に替わる新しい資金源として暴力団がブルーフィルムに目をつけたのだ。こうして暴力団関係者が業界を牛耳るようになり、粗製乱造の時代がやってくる。また家庭用8ミリカメラが普及し、誰でも手軽に映像が撮れるようになったことも大きかっただろう。

「土佐のクロサワ」は、業界引退後の取材で、その後のブルーフィルムについて、このように憤慨している。

「まったく、いまのブルーフィルムいうたらひどいもんですわ。(中略)あんなのが売れるんやったら、もう、わしらみたいな職人の出る幕じゃありません」
「昔に比べて、機械や色彩はようなった。だけど内容があれじゃ、どうにもならん。わしらは一本三百五十フィートの作品を作っとった。それがいまはどうじゃ。二百フィート・十三分のものがほとんど。これじゃ、ちゃんとしたストーリーなんか組めやしない」(『宝石』1975年4月号「ブルーフィルム界の『黒沢明』監督一代記」桑原敏)

こうした映画が日本でブルーフィルムと呼ばれるようになったのは、1960年にグレアム・グリーンの短編小説『ザ・ブルーフィルム』が翻訳されたのがきっかけと言われている。つまり既に黄金期を過ぎてからの時期と、意外に遅いのだ。ちなみに、アメリカではスタッグ・フィルム、ブルー・ムービーズという呼び名が一般的であった。

70年代に入ると国産の新作は次第に作られなくなり、ブルーフィルムの主流は輸入物へと移り変わった。また上映される場も、温泉街のストリップ小屋など、場末のものとなっていった。

そして80年代に裏ビデオが登場すると、ブルーフィルムは完全に過去のものとなり、その姿を消したのである。

<参考資料>

長澤均『ポルノムービーの映像美学――エディソンからアンドリュー・ブレイクまで 視線と扇情の文化史』(彩流社、2016)
帰山教正『映画の性的魅惑』(文久社書房、1928)
長谷川卓也『いとしのブルーフィルム』(青弓社、1998)
三木幹夫『ブルーフィルム物語』(世文社、1981)
週刊朝日編『戦後値段史年表』(朝日文庫、1995)
DVD秘蔵ブルーフィルム』(三和出版、2007)
『週刊現代』1996年9月21日号「ブルーフィルム8ミリの官能」(講談社)
『えろちか』1970年8月号「ブルーフィルム大全」(三崎書房)
『宝石』1975年4月号「ブルーフィルム界の『黒沢明』監督一代記」桑原敏(光文社)