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2021.09.01

02 AV前史[中編]
バスコン、性典、太陽族、赤線……、裸と性を描く日本映画

安田理央

1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。

戦前の映画で描かれた「お色気」シーン

日本で最初に映画が公開されたのは前述の通り1896年(明治29年)。兵庫県神戸市の神港倶楽部でキネトスコープによる上映であった。

そして1917年(大正6年)には、警視庁によって活動写真取締規則が発令される。それによって禁止されたのは以下の場面だった。

一、国体及び君主の尊厳を侵す場面。
二、姦通、自由恋愛等わが国の良風美俗に反する場面。
三、接吻、寝室等に於いて見物に猥褻な観念を起こさせる場面。
四、法科、殺人、強盗等、見物に犯罪の動機を与えるような場面。

セックスを描いたポルノ映画など、到底許されるはずもなかった。そのため、秘密映画としてアンダーグラウンドで流通することになっていったわけである。

日本映画で最初にベッドシーンが描かれたのは、1930年(昭和5年)牧逸馬の同名小説を映画化した『この太陽』(日活 村田実監督)だと言われている。もちろん行為自体が登場するわけではなく、淫奔な有閑マダム蘭子(峰吟子)がベッドに横たわっているところへ主人公の杉山喬太郎(小杉勇)が入っていくものの、そこで寝室を出るシーンにカットが変わってしまう。それでも明らかにセックスを暗示した描写は当時の観客にとっては十分に刺激的であっただろう。

翌年の1931年(昭和6年)の『ミス・ニッポン』(日活 内田吐夢監督)ではベッドシーンが、1934年(昭和9年)の『おせん』(新興キネマ 石田民三監督)では主演女優の太ももが露わになるシーンや湯上がりの半裸シーンがカットされるなど、映画製作者たちが規制に挑みつつもあえなく削除の憂き目にあっている。

もちろん洋画においても規制は厳しかった。日本で最初に公式に公開された女性の全裸が登場した映画はチェコ映画の『春の調べ』(グスタフ・マハティ監督)である。主演のヘディ・ラマー(ヘディ・キースラー名義)のオールヌードシーンが世界的にも話題になった作品だが、1935年(昭和10年)の日本公開版では当然の如く大幅にカットされ、全裸の後ろ姿がわずかに残されただけだった。

その後、軍国主義が台頭してくると、映画にはさらに厳しい制限が課せられていく。昭和十三年には内務省映画検閲局と各映画会社シナリオ作家代表が以下の事項を決定する。

一、欧米映画の影響による個人主義的傾向の浸潤を排除すること。
一、日本精神の昂揚を期し、特にわが国独特の家族制度の美風を顕揚し、国家社会のためにすすんで犠牲となるの国民精神を一層昂揚すること。
一、青年男女、特に近代女性が欧米化し、日本国有の情緒を失いつつある傾向に鑑み、映画を通じて国民大衆の再教育をなすこと。
一、軽佻浮薄な言語動作を銀幕から絶滅する方針を執り、父兄長上に対する尊敬の念を深からしめるように努めること。

翌1939年(昭和14年)には「映画法」が施行され、日本の映画業界は娯楽性を排して、軍国主義を前面に押し出した映画を作らされることになる。

バスコン映画、性典映画、太陽族映画、赤線映画

そして終戦後、今度はGHQ(連合国軍総司令部)が戦前の映画法や内務省検閲を撤廃し、代わりに新しい映画製作禁止条項を定めた。これは「軍国主義を鼓吹するもの」「仇討に関するもの」「民主主義に反するもの」といった過去の日本の軍国主義的な思想を取り締まるものであり、恋愛や性描写については「婦人に対する圧政又は婦人の堕落を取り扱ったり、これを肯認したもの」の条項くらいだろうか。

GHQにより山本嘉次郎監督の『加藤隼戦闘隊』、黒澤明監督の『姿三四郎』、木下恵介監督の『花咲く港』など多くの映画が上映禁止となった一方で、民主的なテーマを扱った映画を推奨した。そして1946年公開の『はたちの青春』(松竹 佐々木康監督)に、大坂志郎と幾野道子のキスシーンが登場。大きな話題となった。

1949年、GHQの主導により映画倫理規定管理委員会(旧映倫)が発足する。映画倫理規定には「国家及び社会」「法律」「宗教」「教育」「残酷醜汚」、そして「風俗」「性」の七項目から成っていた。

「風俗」に関しては

(1)卑猥な言語、動作、衣裳、暗示、歌謡、洒落等は、それがかりに一部の観客にのみ理解されるものであっても取り扱わない。
(2)裸体、着脱衣、身体露出、舞踏及び寝室場の取り扱いは観客の劣情を刺戟しないよう充分に注意する。

「性」に関しては

(1)性関係の取り扱いは、結婚及び家庭の神聖を犯さないように注意し、それに関する描写、表現は観客の劣情を刺戟しないようにする。
(2)売春を正当化しない。
(3)色情倒錯又は変態性欲にもとづく行為を描写しない。
(4)性衛生及び性病は人道的又は科学的観点から必要の場合の外は素材としない。

といった項目が定められた。

この「風俗」「性」の条項に抵触した映画第一号となったのは、映倫発足の年である1949年に公開された木村恵吾監督の『痴人の愛』(大映)だった。京マチ子が肉感的に誘惑するシーンが数箇所カットされることとなっている。

しかし、その後もヌードやセックスの描写を売り物にする映画は続々と作られた。もちろんその表現は極めてソフトなものに過ぎなかったが、それでも多くの作品はヒットした。

50年代初頭に流行したのがバスコン映画である。バースコントロール、つまり産児制限についての映画であり、終戦により兵士が続々と復員してきたことから、まだ食料難の状況にも関わらず人口増加が問題となり、その抑制を目的として政府の後押しによって生まれた。厚生省の推薦を得て、助成金を投入されて作られた性教育映画である。

性の知識を啓蒙する目的の映画であるため、性行為や性器の説明は避けられない。そのため、膣内に避妊薬を挿入するシーンや、男性器にコンドームをかぶせるといったシーンが撮影されている。その説明が目的である以上、修正をしてしまっては意味がない。

つまり男女性器が無修正でスクリーンに映し出されることになる。

本来は学校や職場などで上映されるこれらの映画だが、次第に映画館やストリップ劇場で公開されるようになっていった。パスコン映画とストリップの実演をセットで行う劇場まであったという。

さすがに警視庁も、この目的を逸した「無修正映画」の氾濫に目をつぶる訳にはいかず、1952年には、渋谷の劇場で上映された『育児制限の知識』という映画を公然わいせつ罪で摘発したことから、バスコン映画のブームは終焉を迎えることとなる。

またこの頃には「性典映画」と呼ばれるジャンルもブームとなっている。

その原点となったのが1950年公開の『乙女の性典』(松竹 大庭秀雄監督)だ。小糸のぶの同名小説の映画化で、「日本性教育協会の協力を得た青年子女の正しい性教育を説く異色映画」(映画.com紹介文より)だった。

これがヒットすると続いて『新妻の性典』(松竹 大庭秀雄監督)が作られ、さらに1952年にはやはり性教育の問題を扱ったイタリア映画『明日では遅すぎる』(レオニード・モギー監督)が大ヒット。以降、思春期の少女の性の目覚めを描いた映画が次々と作られた。

中でも有名なのが1953年に公開された『十代の性典』(大映 島耕二監督)だろう。

当時の新聞広告には「私は大人になったのかしら?」「乙女の肉体にきざす性のめざめ」「お母さんと一緒に見て頂きたい」「性問題の劇映画」といったキャッチコピーが書かれている。


島耕二『十代の性典』(1953)公開時の新聞広告

本作は大ヒットを記録し、出演していた若尾文子と南田洋子が脚光を浴び、「性典女優」なるレッテルを貼られることとなった。

大映はすぐさま『続・十代の性典』(佐伯幸三監督)『続々・十代の性典』(小石榮一監督)『十代の誘惑』(久松静児監督)『十代の秘密』(仲本繁夫監督)といった作品を連発。他社も負けじと『乙女の診察室』(松竹 佐々木啓祐監督)『あぶない年頃』(東宝 蛭川伊勢夫監督)といった性教育の名を借りた煽情的な映画を作っていった。

しかし1954年公開の『悪の愉しさ』(東映 千葉泰樹監督)の内容が過激だとして非難の声があがったことをきっかけに「俗悪映画追放」運動が巻き起こった。

こうした世論への対応策として、映倫は1955年に十八歳未満の観覧を禁じる「成人向」映画の指定を決めた。

その基準は以下の通りである。

(1)民主主義の原則に背馳する思想行動の誘致。
(2)その他の社会津年としての公序良俗に反する行動の教唆。
(3)暴力の容認又は賛美。
(4)性的成長の順調な過程の阻害。
(5)その他健全な人間育成を妨げる刺戟。

映倫が「成人向」指定を開始した翌年の1956年5月に『太陽の季節』(日活 古川卓巳監督)が公開される。第三十四回芥川賞を受賞した石原慎太郎の同名小説の映画化で、旧来の道徳に反逆する戦後世代の若者を描いた作品で「成人向」指定を受けたものの、空前の大ヒットとなった。

その翌年には同じく石原慎太郎原作の『処刑の部屋』(大映 市川崑監督)や『狂った果実』(日活 中平康監督)、岩橋邦枝原作の『逆光線』(日活 古川卓巳監督)も公開。こうした新しい若者像を描いた映画は「太陽族映画」と呼ばれ、教育団体やマスコミから大きな非難を受け、各地で上映反対運動が激化した。

『太陽の季節』が公開になった1956年には、売春防止法が公布されたことから、『赤線地帯』(大映 溝口健二監督)、『洲崎パラダイス・赤信号』(日活 川島雄三監督)、『女だけの街』(松竹 内川清一郎監督)などの赤線や遊郭を舞台にした「赤線映画」が次々と作られている。

肉体女優の登場

50年代は日本人がグラマラスな肉体の魅力に目覚めた時代でもあった。1952年に公開されたイタリア映画『にがい米』(ジュゼッペ・サンティス監督)に出演したシルヴァーナ・マンガーノのはちきれんばかりの肉体美は日本人男性に衝撃を与えた。さらにジェーン・ラッセル、ジータ・ロロブリジータ、ジェーンマープルといった肉感的な女優が人気を集めた。

ジュゼッペ・サンティス『にがい米』(1952)


『にがい米』公開時のポスター

1954年にはマリリン・モンローが当時の夫であるジョー・ディマジオと来日し、モンロー旋風を巻き起こす。

この頃、こうした官能的な魅力を持った女優を「肉体女優」と呼んでいた。1947年に田村泰次郎が書いた戦後初のベストセラー小説である『肉体の門』にちなんだ呼称である。

『肉体の門』は、焼け跡となった東京でたくましく生き抜く娼婦たちを描いた小説で、舞台化や映画化もされ、「肉体」という言葉が流行語となっていたのだ。

肉体女優と呼ばれたのは、海外の女優ばかりではなかった。

映倫で「風俗」「性」の条項に抵触し、規制を受けた国産映画第一号となった『痴人の愛』にも出演していた京マチ子は肉体女優の第一号でもあった。

第二号と呼ばれたのが元タカラジェンヌで、アナタハンの女王事件を映画化した『アナタハン』で主演デビューした根岸明美、そして第三号が前田通子だ。

前田通子は1956年公開の『女真珠王の復讐』(新東宝 志村敏夫監督)で後ろ向きながらも、吹き替え無しのオールヌードを披露し、一躍スターダムへとのし上がった。新東宝の前田通子に日活の筑波久子、松竹の泉京子は肉体女優三羽烏と言われた。

京マチ子や根岸明美が「肉体女優」という呼ばれ方を嫌ったのとは対照的に、当時の彼女たちは、その肩書をあっけらかんと受け入れた。

『週刊読売』1957年7月7日号の「三人の『ヴィーナス女優』」という記事では、「演技なら全裸だって何だって平気よ」(前田通子)『カチンコが鳴れば無我夢中でベッド・シーンでも恥ずかしいなんて思う余裕はないわ。ハダカ……もちろん平気よ」(筑波久子)、「売出すためならヌードでも何でもという気持ちだったわ」(泉京子)という彼女たちの発言を紹介している。

こうして多くの「肉体映画」「ハダカ映画」が作られるようになり、その表現をめぐって映倫との衝突が度々起こった。また洋画においても、規定に抵触する場面をカットするように映倫が求めたことによって、問題となることが目立っていた。

それでも「ハダカ映画」は圧倒的な支持を受けていた。そんな中から、「ピンク映画」と呼ばれる映画が生まれたのである。

<参考資料>

桑原稲敏『切られた猥褻――映倫カット史』(読売新聞社、1993)
鈴木義昭『ピンク映画水滸伝――その誕生と興亡』(人間社文庫、2020)