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2021.09.09

03 AV前史[後編]
ピンク映画、ロマンポルノからビニール本へ

安田理央

1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。

映画業界に吹き荒れたピンク映画旋風

成人映画=ピンク映画だと思われることも多いが、ピンク映画の定義としては「独立系会社による性描写を中心とした成人指定映画」ということになるだろう。独立系とは、邦画大手(東宝、新東宝、大映、松竹、日活、東映)以外の映画会社を指す。

ピンク映画が生まれた1960年代前半は、東宝、松竹、大映といった大手映画会社も成人向けに指定されるお色気映画を多数制作していたのだが、こうした作品と区別するためにピンク映画という名称が生まれたのだ。

大手五社のプログラムピクチャーに比べ、制作費は五分の一、撮影日数は四分の一程度。つまり制作費は約三百万円で一週間ほどで撮りあげるのが普通だった。そのため、当初は三百万円映画と呼ばれていた。

そんな低コストで作られながらも、高い興行収入をあげたため、利益率は非常に高い。ピンク映画を上映する映画館はどこも満員で立ち見が出るほどだったという。

こうしてピンク映画の製作は急増し、ブームとなっていく。

よくピンク映画の第一号とされるのが、1962年に公開された大蔵映画『肉体の市場』(「肉体市場」の表記もあり)だ。

「肉体の市場」は当時、六本木でたむろしていた無軌道な若者たちの生態を描いた小林悟監督による映画で、映倫の審査で成人指定を受けて上映されたが、上映中に警察が公然わいせつの疑いがあると、強姦シーンや私刑シーンなどの問題のシーンの削除を通告したことで話題となった。

ただし、最初の「独立系会社による性描写を中心とした成人指定映画」という定義に当てはまるのが『肉体の市場』ではあるが、この時点では「ピンク映画」という言葉は生まれていない。

その翌年に『情欲の洞窟』(監督・関孝二 国映)の現場取材記事を、後に映画評論家となる村井実が内外タイムスに書いた際に「おピンク映画」という表現を使ったのが、ピンク映画という名称の始まりと言われている。この際に村井は、ピンク映画を作る小規模な映画会社を「エロダクション」とも書いており、こちらも定着してピンク映画をエロダクション映画と呼ぶことも多かった。

1965年にはピンク映画の制作本数は年間3百本に達した。前年が約百本だったので、一気に三倍に膨れ上がったことになる。

この年には、ピンク映画の命名者である村井実がオーナーの日本初の成人映画雑誌『成人映画』(現代工房)が創刊されるなど、正にピンク映画の黄金時代が到来したと言える。


『成人映画』創刊号(1965)SMPEDIA

ピンク映画を作っていたのは、東宝から独立し1961年に倒産した新東宝のスタッフが多く、現在もピンク映画を作り続けている大蔵映画も、新東宝の社長であった大蔵貢が設立した会社だった。

また『情欲の洞窟』を制作した国映は、それまで教育映画を作っていたのが1958年頃からお色気路線へと転向して、ピンク映画の代表的な会社となった。

その他、ピンク映画は金になると見て、参入してくる会社も多く、エロダクションは増加していく。

エネルギッシュに問題作を連発する若松孝二を筆頭に、気鋭の監督も次々と登場し、そのブームを加熱させる。

斜陽の時代を迎えた大手映画会社を尻目に、ピンク映画業界は空前の盛り上がりを見せていったのだ。

アダルトメディアの王者となった日活ロマンポルノ

 ピンク映画の盛り上がりを尻目に、大手映画会社は斜陽の時代を迎えていた。中でも、日活は経営悪化に喘ぎ、倒産に危機に追い込まれていた。そして窮余の策として打ち出されたのがポルノ映画の制作だった。

大手映画会社の映画の五分の一以下の制作費で大きな収入を上げている独立プロ=エロダクションのピンク映画の制作は、厳しい状況を打開する最後の方法だったのだ。

この路線変更をよしとしない多くの俳優、スタッフ、社員が日活を去ったが、どんな形であれ、映画を作りたいという者は残り、彼らによって1971年から日活ロマンポルノはスタートする。大手映画会社が、一般映画の制作を中止して成人映画の制作・配給へと完全に移行するなど世界的に見ても例がなかった。

制作費は一本あたり750万円。それまでの日活の一般向け映画の半分以下だが、ピンク映画に比べれば倍以上の金額だ。その制作費と、大手映画会社である日活の制作力を持ってすれば、それまでのピンク映画とは一線を画したエロスを追求した映画が作れる、そんな自負が「日活ロマンポルノ」というブランド名をつけたことからも見て取れるだろう。

日活ロマンポルノの第一弾となったのが、1971年11月20日に公開された『色暦大奥秘話』(監督・林功)と『団地妻・昼下がりの情事』(監督・西村昭五郎)の二本だった。


西村昭五郎『団地妻・昼下がりの情事』(1971)

『色暦』の主演はこれがデビュー作となる新人の小川節子だったが、『団地妻』の主演はそれまでに約200本ものピンク映画に出演してきた白川和子。この後も、谷ナオミや宮下順子など、多くのピンク映画の女優が引き抜かれて日活ロマンポルノのスターとして活躍するようになる。

ちなみに公開時はこの二本に、ピンク映画の会社であるプリマ企画製作の『河内女とエロ事師』(監督・小早川崇)を加えた三本立てだった。そしてプリマ企画は、この後のAV業界に大きな影響を与える代々木忠監督が制作主任を務めていた会社であった。

日活がロマンポルノ路線に転換すると、日本中に存在した日活系列の映画館のほとんどが成人映画専門へと鞍替えした。それ以前にも客入りのいいピンク映画を上映する映画館は多かったのだが、1971年の日活ロマンポルノの誕生によって、成人映画は一気に一般的なものとなったのである。70年代には東京都内だけで100軒以上の成人映画館が営業していた。

「制作費は750万円、上映時間は70分以内、7〜8日で撮影」「濡れ場を10分に一度は入れる」といった条件さえクリアしていれば、あとは監督の裁量に任せるという制作態勢があったため、ポルノという枠組みを超えた多種多様な作品が生まれ、中にはかなり実験的な作品も撮られている。そのため、その後の日本映画を支えるような存在となる監督を数多く輩出し、若手映画クリエイターの育成の場としても機能した。

そして日活ロマンポルノは泉じゅん、鹿沼えり、東てる美、美保純など多くのアイドル的な人気を持ったスター女優を生み出した。中でも原悦子などは、ファンクラブの会員が76万人、数多くの学園祭に呼ばれ、武道館でサイン会をするほど爆発的な人気を誇った。

週刊誌やエロ雑誌に至るまで、ヌードグラビアに登場するモデルの中でも、日活ロマンポルノの女優はスターとして扱われた。

また、天地真理や畑中葉子、黛ジュンといった人気アイドルやタレントが出演することも多かった。これは後の芸能人AVの先駆けとも言えるだろう。

70年代から80年代初頭にかけて、日活ロマンポルノはアダルトメディアの王者であり、ロマンポルノの女優はオナペットの女王とも言うべき存在であったのだ。

ビニール袋の中に封入された妖精たち

ここまでAVが誕生するに至る前史として成人向けの動画メディアの変遷を語って来たが、もうひとつ欠かすことに出来ないメディアがある。

それがビニール本=ビニ本である。

ビニ本の定義としては、大人のオモチャ屋やビニ本専門店、一部の古書店などで販売されるオールカラーの成人向け写真集というところだろうか。ビニール袋に入れて販売されるからビニール本なのだが、この名称は1975年頃に生まれたようだ。ただ、60年代から70年代にかけての時期に、輸入物などのヌード写真集をビニールに入れて販売するという方法はとられており、袋物などと呼ぶこともあったらしい。

70年代後半からビニ本はジワジワと密かな人気を集めていたのだが、それが社会的なブームにまで発展したのは1980年のことだった。

その起爆剤となったのが、一冊のビニ本である。それが1980年9月に恵友書房から発売された『慢熟』だ。表紙には「ミス・ヌード・ワールドコンテストで準ミス・ヌードに選ばれたギャル!」の文字がある。

そう、この『慢熟』のモデル、岡まゆみはカナダのトロントで行われたミス・ヌード・ページェントに日本代表として出場し、見事準ミスを獲得したのだ。

実は岡まゆみは、撮影当日にドタキャンした子の代理として急遽キャスティングされたモデルで、『慢熟』の入稿の日に編集者が彼女が準ミスを獲得したというニュースを知り、慌てて表紙に一文を追加したのだという。

しかし、世界大会で準ミスを受賞した女の子が出演しているビニ本があるということを週刊誌などが報じ、『慢熟』は一躍話題の一冊となった。ビニ本は通常2万部も売れれば大ヒットと言われるが、『慢熟』は10万部以上を売り上げた。それまでビニ本の存在を知らなかった層までもが先を争うように買ったからである。

『慢熟』が出る少し前からビニ本業界ではスケパン戦争が始まっていた。パンティの布地を薄くすることで股間を透けさせるという手法が流行していたのだ。当時は、陰毛が見えると猥褻として摘発されていた時代だ。薄い布地越しに陰毛がはっきり透けて見えるということは事件だったのだ。過激度が高まったことで、好事家の間でビニ本が盛り上がり始めた矢先に『慢熟』騒動が起きたのだ。

実際には『慢熟』は当時のビニ本の中ではとりたてて過激な本とは言えないものであったが、それでもビニ本を初めて見る一般客には、驚くような露出度だったのだ。

こんなことからビニ本は大きな盛り上がりを見せ、空前のブームとなった。ビニ本出版社は二百社を超え、毎月3百冊が発売され、百億円産業とまで言われた。繁華街に限らず、ビニ本専門店が日本中にオープンした。ショップには客が殺到し、新刊のビニ本を店頭に並べるや否や、あっという間に売り切れるというほどだった。

しかし過当競争になったことから、ビニ本出版社は過激度を競うようになり、陰毛どころか性器までも見えて当たり前というほどにエスカレート。そうなれば当然、警察も見逃すはずもなく摘発も相次いだ。さらには完全に非合法な無修正写真集である「裏本」も登場し、話題がそちらに向かってしまったことから、1981年には早くもビニ本ブームは失速してしまう。

そして、困ったビニ本出版社が目をつけたのがアダルトビデオだったのである。

協力:hide

<参考資料>

桑原稲敏『切られた猥褻――映倫カット史』(読売新聞社、1993)
鈴木義昭『ピンク映画水滸伝――その誕生と興亡』(人間社文庫、2020)
鳩飼未緒「日活ニュー・アクションと日活ロマンポルノの連続性」(論文、2018)
日本昭和エロ大全」(辰巳出版、2020)
「アダルトビデオ10年史」(東京三世社、1991)