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2021.09.23

05 黎明期のAV[2]
“本番女優”から素人モデルの時代へ

安田理央

1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。

AV最初のスター、愛染恭子

『ビニ本の女 秘奥覗き』と『OLワレメ白書 熟した秘園』によって、現在に続くAVという新しいジャンルを切り開いた日本ビデオ映像(みみずくビデオパック)だが、その半年後にはAV最初のヒット作とも言えるタイトルを送り出す。

それが愛染恭子主演の『淫欲のうずき』である。


代々木忠『淫欲のうずき』(1981)

愛染恭子は、青山涼子の芸名でピンク映画などで活躍していたが、武智鉄二監督の1981年の映画『白日夢』で主演に抜擢され、佐藤慶との本番行為に挑んだことで一躍有名になっていた。

監督はピンク映画の監督であり、愛染恭子が所属するプロダクション「アクトレス」の社長でもある代々木忠だった。

ピンク映画よりも格下と見られていた「生撮りビデオ」に、一般的な知名度もある話題の女優、愛染恭子が出演するということは大きなニュースだったのだろう。

代々木忠監督の半生を追った『虚実皮膜』(東良美季 キネマ旬報)に、『淫欲のうずき』を制作するきっかけについて代々木自身がこう語っている。代々木が旧知のカメラマン斉藤雅則との会話の中でそれは生まれた。

〔前略〕そこで色々話をしてて、愛染がもうすごい人気になっていたから、斉藤さんが『もったいないよ、忠さんとこ(アクトレス)のタレントなんだから、愛染で一本撮った方が良いよ』って言ったんだよね。だからまったく売るあてもなく撮ったんだ。

つまり代々木主導の制作で『淫欲のうずき』は撮られたのだ。有名女優の出演作ということで、にっかつからも引き合いがあったが、買取りや独占販売といった条件が折り合わず、日本ビデオ映像からの販売となった。

『淫欲のうずき』のパッケージを見てみると、企画・製作はアクトレスプロダクション、販売元はみみずくビデオパック・日本ビデオ映像株式会社となっている。

またタイトルも「『白日夢』の愛染恭子の本番生撮り」が大きく書かれ、『淫欲のうずき』はその下に小さく添えられている。完全に愛染恭子のネームバリューに頼った作りだったのだ。

『淫欲のうずき』に続き、『淫乱館の失神夢』『めまい』、そしてバンコクロケの『華麗なる愛の遍歴』、ヨーロッパロケの『華麗なる追憶』と愛染恭子主演・代々木忠監督コンビによる作品は次々と作られ、いずれも大ヒットを記録した。

売れたねぇ。愛染のシリーズはすべて売れた。もうダビングが追いつかないんですよ。当時はダビング工場なんて本当に少なかったから。だから色んなところに分散して、何とかやった。大変だったという記憶がある。しかも値段が一本一万四八○○円とかでしょう、それの四掛けの現金が入ってくる。売り上げ本数は万単位だし。俺達そんな大金今まで見たことないもんねえ。(『虚実皮膜』より)

1985年に日本ビデオ映像が倒産した際の記事にも「日本ビデオ映像が危ないのではないのかという噂はすでに昨年の後半から立っていた。売れているタイトルがないからであろうが、誰しも愛染時代(つまり愛染恭子、代々木忠氏が活躍していたビデオ映像全盛期をこう呼んでいる)のたくわえがあるから、まだまだ心配はないとふんでいた」(『ビデオ・ザ・ワールド』1985年7月号)と書かれるくらいに、その売り上げは凄かったということだ。

『ビデオプレス』1982年2月号には、「ビデオ女王・愛染恭子独占インタビュー」が掲載されている。同号掲載の売り上げランキングでも1位『淫欲のうずき』、2位『淫乱館の失神夢』、9位『めまい』とベストテン内に3本ランクインしている状況から見ても、愛染恭子は女王の称号にふさわしかった。

このインタビューの中で愛染は「本番女優」と呼ばれることに対して、こう答えている。

私ね、“本番女優”って呼ばれることに、べつに抵抗ないんです。
もちろん、佐藤慶さんと実際にセックスしたわけですし。
でも、女優でも誰でもセックスはするじゃない。今は“本番女優・愛染恭子”だけれど、ヌードにならない作品に出てれば、そうじゃなくなると思うのね。本番っていってもいろいろあるし、そう考えると“本番女優”なんてつける方がおかしいのかもね。

逆説的にこの当時いかに「本番」撮影という行為がショッキングであり、センセーショナルだったかということがわかるだろう。

しかし、「愛染恭子の本番生撮り」をうたっていながら、この一連の作品では実際には本番は行っていなかったという。

このインタビューではビデオ撮影の所要時間についても語っている。
 

ビデオは映画に比べて撮影が早いんですよね。30分ものなら一週間、1時間ものでも十日で撮れちゃう。

2時間以上の作品を半日で撮るとい現在のAVの状況からは考えられないほどの贅沢さである。

宇宙企画の誕生

『淫欲のうずき』発売の一ヶ月後の1981年12月25日には宇宙企画から『女子大寮ルポ・風呂場レズ』が発売されている。


中村幻児『女子大寮ルポ・風呂場レズ』(1981)

監督は中村幻児。ピンク映画の鬼才と呼ばれ、筒井康隆原作の『ウィークエンド・シャッフル』などの一般映画も手掛けている。

そして宇宙企画はビニ本、自販機本などを作っていた山崎紀雄が「これからはビデオの時代だ」という先見の明で設立したメーカーだった。

中村が南米系のストリッパーをビニ本のモデルとして山崎に紹介して以来の付き合いだったという。

宇宙企画の第一作、第二作の制作を中村は依頼された。

中村幻児の未発表の手記「わがAVに関する雑感」によれば山崎からのオーダーは「手垢のついた女優ではなく現役の女子大生を出演させ、きれいな映像と音楽で構成して欲しい」というものだった。

提示された制作費は、一作品250万円で女性出演者のギャラは20万円。当時のピンク映画での女優の出演料は一日2万円が相場だったというから、破格の条件だ。

内容は他愛もないものだった。原宿の街や某大学の構内でロケしたり、マンションでシャワーを浴びたりするシーンを重ねながら、女のコの日常生活や性体験をカメラに向かってフリートークで語りかけ、愛らしくオナニーをする。最後は満足そうにカメラに微笑んでジ・エンド。ちょっとエッチなイメージビデオのようなものだった。

しかし、最初はまったく内容が違うシナリオだったのだが、主演の女のコがしゃべる台詞は棒読み。まるで芝居ができない。何度やってもNGの連続だった。現場主任と二人で頭を抱えてしまい、撮影を続行するのは不可能と結論を出した。

ところが、山崎氏から「内容は一任するから撮影は続行せよ」と厳命されてしまう。仕方なくヤケクソで、急遽インタビュー形式の性告白ものに変更したのである。

二作目も同じような内容で、女のコはSMの性癖があり、嘘の性体験をまことしやかに告白し、最後はやるせなく真紅の縄を体に巻きつけ、オナニーしながら微笑んで終わる。

ビデオの画面を見つめる寂しい男と、画面の中の愛くるしい女のコがバーチャルな関係で結ばれ、覗き部屋的な相互の擬似セックスによって射精に導くという内容になった。言ってみれば「動くビニ本」を撮ったのである。(「わがAVに関する雑感」)

これが第一作の『女子大寮ルポ・風呂場レズ』、そして第二作の『田中千鶴子のSM初体験』となる。ここから「女子大生素人生撮りシリーズ」が始まった。

ただの素人女性だったから演技が出来ずに「インタビュー形式の性告白物」、つまりドラマではなくドキュメントタッチの作品へと路線変更を余儀なくされたわけだが、それが結果的に「生撮り」というAVならではの新しい方向性を切り開くこととなった。
 
AV第一号とされる『ビニ本の女 秘奥覗き』『OLワレメ白書 熟した秘園』にしても、愛染恭子・代々木忠コンビの一連の作品にしても、あくまでもドラマ中心の映画の文法の延長にある作りだった。

そして女優にしても、愛染恭子を筆頭に、1982年に『狂った果実 狂熱の乱行』(日本ビデオ映像)でAVデビューを果たす美保純などピンク映画やにっかつロマンポルノで活躍していた女優が人気を集めていた。

つまり、成人映画の簡易版とでも呼べる位置づけだったのが黎明期のAVだった。

そこに楔を打ち込んだのが「女子大生素人生撮りシリーズ」だったのである。

しかし、宇宙企画にしても最初からヒットしたわけではない。まだビデオデッキも普及していない時期である。圧倒的なネームバリューを持った愛染恭子出演作とは違い、無名の素人モデルの出演作はショップでもなかなか扱ってもらえなかったという。

素人モデルという発明

その風向きが一気に変わったのが、1982年発売の『私の放課後』だ。「女子大生素人生撮りシリーズ」に続く「女子高生素人生撮りシリーズ」の第一弾であり、主演は水沢聖子。

この作品を『東京スポーツ』が松田聖子のそっくりさんが出演していると記事にした。そのモデル名からも松田聖子を意識しているのはわかるが、実際に見てみると髪型以外はそう似ているとも思えない。しかし、それでも話題になった。セーラー服のスカートをめくりあげての放尿シーンもインパクトがあったようだ。

この作品をきっかけに宇宙企画は注目を集め始めた。わずか数十万円だった月の売り上げは、9000万円にもなった。宇宙企画は設立7ヶ月にして1億円近い売り上げの会社となったのだ。「これからはビデオの時代だ」という山崎の予感は当たったわけだ。

宇宙企画はさらに「女子高生素人生撮りシリーズ」の第二弾として『美知子の恥じらいノート』を発売する。監督はイメージフォーラム映像研究所出身の小路谷秀樹。ビデオカメラならではの特性を活かしたドキュメント手法による作品であり、中村幻児が『女子大寮ルポ・風呂場レズ』で見せた手法をさらに押し進め、その後のAVのスタイルに大きな影響を与えることとなった。

小路谷秀樹は黎明期のAV業界における重要な監督の一人であり、彼の生み出した手法の多くが、日本のAVのスタイルとして定着していく。
 

<参考資料>

「アダルトビデオ10年史」(東京三世社)
東良美季『代々木忠 虚実皮膜』(キネマ旬報、2011)
藤木TDC『アダルトビデオ革命史』(幻冬舎新書、2009)
『ビデオプレス』1982年6月号、1982年8月号、1983年5月号(大亜出版)
『ビデオ・ザ・ワールド』1985年7月号(白夜書房)
中村幻児「わがAVに関する雑感」(未発表)
阿久真子『裸の巨人 宇宙企画とデラべっぴんを創った男 山崎紀雄』(双葉社、2017)