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2021.09.30

06 黎明期のAV[3]
演技ではないエロの発見と“裏”

安田理央

1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。

『ドキュメント ザ・オナニー』の衝撃

1982年に入ってすぐに、自販機本(自動販売機で販売するためのエロ本)、ビニール本などを手掛けていた群雄社出版がVIPエンタープライズとして『48時間の裸体』『死虐の室』を発売し、AV業界に参入。

続いてサム・ビデオ・センターが『紫痕』、日本ビデオ出版が『くい込み地獄』を発売。六本木の会員制SMクラブを母体とするサム・ビデオ・センターはもちろん、VIPエンタープライズや日本ビデオ出版の作品も全てSM物だった。

この時期のAVは、まだマニア向けという性格が強く、SM物の人気が高かった。後に美少女系メーカーとして知られるようになるメーカーも、当初はSM物をリリースすることが多かったのだ。

4月には『狂った果実/狂熱の乱交』(日本ビデオ映像)で美保純がビデオデビューを飾る。

美保純は、1980年に「ディスコ・クィーン・コンテスト」で優勝。1981年には、にっかつロマンポルノ『制服処女のいたみ』に主演するなど、既に人気の高い女優だったこともあり、『狂った果実/狂熱の乱交』をはじめとするビデオ出演作は軒並みヒットを記録。この時期は愛染恭子と美保純の二強時代と言われるほどだった。

しかし1982年のAVにおける最大のヒット作は8月に日本ビデオ映像から一挙7本が発売された『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズであった。

監督は愛染恭子とのコンビでヒットを飛ばしていた代々木忠。

シリーズ第一作となる『主婦・斉藤京子(25才)』は、なんと8万本という記録的なセールスを記録した。


『ドキュメント ザ・オナニー PART-1 主婦・斉藤京子(25才)』(1982)

『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズは、代々木監督が女性にインタビューをして、その流れでオナニーをしてもらうところまでを撮影するというドキュメントタッチの作品だ。

しかし、この企画は実は最初から予定されていたものではなかったのだ。

代々木が愛染恭子とのコンビで作った一連の作品は「本番生撮り」とうたわれていたものの、実際には疑似であった。

「月刊NAO DVD」2009年6月号(三和出版)に掲載された二村ヒトシ監督との対談の中で、代々木はその顛末をこう語っている。

代々木 〔前略〕おれも本番を撮ってみたいって思っていて、出来る子を探してたんだよ。その頃、うちでやっていたモデルプロダクションで、本番できる子いないかって聞いたら、一人いた。それが西川(小百合)って子。やってもいいって言ってくれたんですよ。
二村 それほど当時は、カメラの前で本番をするってことは大変なことだったんですね。
代々木 最初は本番シーンのあるドラマ物を撮るつもりだった。ちゃんと台本もあってね。ただ同時にメイキング用のサブカメラも回してたんだ。やっぱり、その頃、女の子が本番をやるってことは大きな決意がいるから、心の迷いとかを追っておこうと思ってね。でも、この子もいざ本番って時になって、やっぱり出来ないなんて言い出した。
二村 うーん、今からは考えられないですね。
代々木 じゃあ中止というわけにはいかない。そこで話しているうちに、オナニーなら出来るだろうって流れになった。
二村 オナニーのドキュメントになったのは、偶然の産物だったんですか。

ナンバリングでは『主婦・斉藤京子』が第一作となっているが、最初に撮影されたのは第三作の『女高生・西川小百合(18才)』が最初だった。ちなみにこの西川小百合はこの後、西川瀬里奈と改名し『団鬼六 少女木馬責め』(1982年 にっかつ)などの成人映画で活躍する女優となる。


『ドキュメント ザ・オナニー PART-3 女高生・西川小百合(18才)』(1982)

代々木 そう。それで実際に撮ったら、すごくいやらしいじゃない? 本気でオナニーしてくれて、ベトベトになってた。それまでドラマだったから、オナニーもセックスも形だけだったんですよ。カメラにどう映っているのかが重要で、こう見せればいいとか、喘ぎ顔はこうがいいとか、演技をさせてたんですね。当時はそれがいやらしいと思っていた。でも、オナニーを撮ってみたら、すごいんですよ。撮りながら、おれも勃ってくるわけよ。今、振り返ると、あの子とセックスしていたんだね。
二村 会話でセックスしていたと。
代々木 それまで、その子で撮ったドラマパートは全部没にして、メイキング用にまわしてたサブカメラをメインにしたんだ。オナニーをもっと見てみたい、もっと撮りたいと思って、とりあえず6〜7人キャスティングして、立て続けに撮った。センズリを覚えたての男の子みたいに夢中になって(笑)。
(『月刊NAO DVD』2009年6月号)

それまでの成人映画で見ることのできたセックスは、あくまでも女優と男優による演技だった。それは「本番生撮り」とうたわれているAVにおいても同じだった。女優は、あくまでも感じている演技をしているだけであり、それこそが彼女たちが「女優」であるというアイデンティティだった。

そこに、オナニーで本当に感じている女性の姿が出現したのだ。監督である代々木が夢中になったほどだ。それまで演技の「感じている姿」しか見たことがなかった当時の視聴者には凄まじい衝撃であった。

『ドキュメント ザ・オナニー』が大きな話題となり、空前のセールスを記録したのも当然だと言えよう。この時、AVはそれまでの「成人映画の延長」とは別のスタイルを確立したのだ。

しかし『ドキュメント ザ・オナニー』の知名度を一気に高めたのは、このシリーズを再編集して成人映画として上映された映画版『THE ONANIE』だったというのは皮肉な話である。当時は、まだビデオデッキの普及率も低かったために、成人映画館でこの作品を見たという人も多かったのである。

裏ビデオと表ビデオ

1982年という年のヒット作としては、『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズ以上に話題となり、それ以上の本数が出回った『洗濯屋ケンちゃん』がある。当時の一般的な知名度は、こちらの方が上だろう。

ただし『洗濯屋ケンちゃん』は裏ビデオだ。裏ビデオとは、非合法に流通する無修正のポルノビデオのことだ。

ブルーフィルムがビデオへとフォーマットが変わったものだとも言えるが、サイト「うらびでおウィキ」を運営する昭和裏ビデオ研究家のTAKA氏によれば、国内でブルーフィルムが作られていた時期から、裏ビデオが制作される時期までにブランクがあることなどから、作っていたグループは全く別だと考えられるようだ。

無修正のビデオとしては70年代半ばに「ラブホテル消し忘れビデオ」が流通したのが最初と言われている。これは当時のラブホテルにはビデオカメラが設置されており、利用者が自分たちの行為をビデオで撮影して、見ることができるサービスがあり、本来なら消去されるはずのその映像が、消し忘れたことにより流出したというものだ。

『ビデオプレス』1982年7月号掲載の「男と女が演出するラブホテル考」は、そうしたカメラを使って自分たちの行為を撮影しようという趣旨のハウトゥ記事だが、「いまのラブホテルのほどんはVTR完備のところが多いので、結構簡単にビデオ体験ができるようになってきた」と書かれており、カメラ備え付けのサービスがこの当時は珍しいものではなかったことがわかる。

70年代には他に海外のポルノ映画をビデオ化したものも流通していた。欧米では既にポルノが解禁されていたためだ。

国内で制作された初の裏ビデオと言われているのが70年代末に関西で作られた『星と虹の詩』だ。この時期にはさらに『朝一番』『遊蕩(放蕩)』『溜息」と言う作品も作られ、関西三部作と呼ばれている。

TAKA氏が入手した『朝一番』を筆者も見せてもらったのだが、作りとしてはストーリーもなく、ただセックスしているだけの末期ブルーフィルム的な作りであった。

80年代に入ると関西から東京へと制作の中心が移っていく。それまで裏本を制作していたグループが映像にも手を出すようになったようだ。映画やテレビのスタッフがアルバイト的に撮影に関わっていた。

そんな中で1982年に作られたのが『洗濯屋ケンちゃん』である。


『洗濯屋ケンちゃん』(1982)

クリーニング屋の青年ケンちゃんが、得意先の妾女性をデートに誘い、海辺の草むらで青姦に至るのが前半。後半では友人の彼女を騙してラブホテルに呼び出してレイプするという二部構成となっている。

にっかつなどで活躍していたスタッフたちの手によるものということもあり、映像、演出ともに完成度も高く、一気に話題となった。

一説によれば、その販売総数は13万本、売り上げは十数億円に及ぶということだが、これはダビングされた商品が出回ったためで、制作グループが卸した正規版はわずか200本だったそうだ。

同時期に、やはりプロの撮影スタッフの手による『IN SHOOT 恐怖の人間狩り』など、クオリティの高い作品が作られたことにより、裏ビデオはブームとなっていく。

80年代前半においては、裏ビデオの方が有名であり、正規のAVは「表ビデオ」などと呼ばれていた。

ビニ本、裏本、そしてビデオなどのアダルトメディアを扱う情報誌であった『オレンジ通信』(東京三世社)、『アップル通信』(三和出版)でも、この時期は裏ビデオの方の扱いが大きかった。

やはりアダルトメディア情報誌であった『ボディプレス』(白夜書房)の1985年9月号を見ると、アダルトメディア評論家の奥出哲雄が「今回、BP誌で表ビデオの特集をやると聞いた時、これはまた売れないだろうなと即座に思った」などと書いている。「表ビデオ」という表現は1985年の時点においても使われており、まだまだ裏ビデオの方が注目されていたのである。

<参考資料>

『アダルトビデオ10年史』(東京三世社)
東良美季『代々木忠 虚実皮膜』(キネマ旬報、2011)
藤木TDC『アダルトビデオ革命史』(幻冬舎新書、2009)
『ビデオプレス』1982年7月号(大亜出版)
『ビデオプレスDELUXE』(大亜出版)
『月刊NAO DVD』2009年6月号」(三和出版
『ボディプレス』1985年9月号(白夜書房)
うらびでおウィキ