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春がいっぱい
春がいっぱい
1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。
日本初のAV専門誌として1982年に創刊された『ビデオプレス』の創刊一周年記念として実施されたのが「第一回ビデオ・クィーン・コンテスト」だ。読者投票によって、人気ナンバーワンのAV女優(当時はビデオ女優などと呼ばれていた)を決めるというイベントである。
その初代ビデオ・クィーンに選ばれたのが八神康子だった。
八神康子は、1982年に二見書房から発売された素人女性のヌード写真集(セミヌードの子もいたが)『隣りのお姉さん100人』の人気投票で1位を獲得し、1983年に『隣りのお姉さん』(ポニー)でAVデビューした。
その後も数多くのAVに出演して人気を高めていき、1985年には『ひとり寝のララバイ』(ビクター)でレコードデビューを果たす。さらにはテレビドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)などにレビュラー出演するなど芸能界でも活躍することになる。
しかし「第一回ビデオ・クィーン・コンテスト」が開催された1983年の時点では、AVに出演しているだけの無名の新人女優に過ぎなかったのだ(実は『隣りのお姉さん100人』以前にもヌードモデルとしてビニ本などに出演していたのだが)。
「第一回ビデオ・クィーン・コンテスト」の2位以下の順位を見てみると、2位・美保純、3位・小森みちこ、4位・愛染恭子、5位・朝吹ケイトなど、ロマンポルノ女優の名前が並んでいる。
80年代前半の時点では、にっかつロマンポルノがアダルトメディアの王者であり、ロマンポルノ女優がオナペットの最上位クラスに位置づけられていた。
そのため、AVにおいてもロマンポルノ女優の出演作は別格の人気を誇っていたのである。
しかし「第一回ビデオ・クィーン・コンテスト」では、AVを中心に活動していた八神康子が一位を獲得したのだ。AV専門誌の人気投票ということで、ある種のバイアスがかかっていたとも言えるが、それでも当時テレビでも活躍していた美保純や、元アイドルの小森みちこ、そして絶対的女王であった愛染恭子を押さえて八神康子がクィーンに選ばれたのは大きなニュースであり、アダルトメディアの勢力地図がこれから大きく変わることを予感させる事件であった。
しかも八神康子は、その後の第二回、第三回と「ビデオ・クィーン・コンテスト」を連覇していくのだ。
『ビデオプレスDELUXE Vol.2』(大亜出版)での第三回ビデオ・クィーン・コンテストでクィーン三連覇を果たした際の紹介文を見てみよう。
八神康子、V3決定!! 第3回のビデオ・クィーン・コンテストのこの結果は、考えてみれば当然といえばトーゼンといえる。
他の女優たちが映画、TVを中心に活躍しているのに比べ、ビデオのみに力を入れ活動する八神康子。彼女以外にクィーンにふさわしい女優は、ちょっと思い浮かばない。
〔中略〕
彼女の最大の魅力である笑顔とあどけなさいなくさない限り、ビデオ・クィーンの座は当分ゆらぎそうにない。八神康子の魅力は無限大だ。
第三回ビデオ・クィーン・コンテストでは、準クィーンが井上麻衣、ビデオアイドル賞が可愛かずみ、新人賞が北原ちあき、ベストプレイヤー賞が岡本かおりと、相変わらずロマンポルノ女優が独占していることから考えても、AV中心の活動をしている八神康子の人気は異例のものだったのだ。
八神康子は日本最初のAVアイドルなのである。
もうひとつ八神康子の特徴として上げられるのが、彼女が「オナニークィーン」の異名も持っていたことだ。
AVデビュー作となる『隣りのお姉さん』は、前半が八神康子、後半が岡田麻喜が出演するカップリング形式の作品だ。
八神康子パートの内容は、ある商事会社に勤めているOLの八神康子は夜は水商売のバイトをしている。客に太ももをさわられるなどのセクハラをされた康子は帰宅して、その感触を思い出してオナニーをしてしまう、というもの。
唐突に『隣りのお姉さん100人』に出演したきっかけとなった渋谷の公園通りでのスカウトや、写真集の撮影シーンの再現映像などがインサートされたり、八神康子とすれ違った男子中学生が書店で『隣りのお姉さん100人』を立ち読みするというメタ演出のシーンがあったりする。
原作として「隣りのお姉さん」(二見書房刊)とクレジットされているゆえのお遊びなのだろうか。
本作では八神康子も共演の岡田麻喜もオナニーを見せるだけでセックスシーンはない。
さらに次作の『ウィークエンドオナニー』(ボルドー)もタイトル通りにオナニーのみ。続く『愛・ラブ・サマー』(ボルドー)ではオナニー中心ではあるが、女性とのレズシーンを見せ、その次の『プライベート・ルーム』(日本ビデオ映像)でようやくソフトな男女のカラミを解禁した。
しかしその後も八神康子と言えばオナニーという印象は強く、オナニーを中心とした作品が次々と作られていった。
『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズの大ヒットの影響もあったのか、この時期にはむしろオナニーの方が、演技くさいセックスシーンよりも生々しいという意識があったのかもしれない。
AVを黎明期から見ていたライターの水津宏は、『80年代AV大全』(双葉社 1999年)の中で八神康子の存在をこう書いている。
人気女優でありながら、映画の匂いをもたない、しかもぎこちない演技の八神康子。それは、「生撮り」という言葉の持つイメージとピタリと合った。彼女の作品がヒットした一番大きな理由はそこにある。それに気づいたビニ本系ビデオ・メーカーは、旧来の「女優」と言う言葉の概念を変え、生撮りに合ったシロウトの「女優」を作り始める。そして、それはやがて旧来の「女優」に頼っていた映画系ビデオ・メーカーを崩壊へと導き、現在のアダルトビデオの原型を作る。
八神康子は、実にエポックメーキングな存在であったのだ。
AVの、成人映画からの脱却は確実に進みつつあった。
八神康子が三連覇を果たした第三回ビデオ・クィーン・コンテストで最優秀作品賞を受賞したのが『ミス本番・裕美子19歳』(宇宙企画)だった。
圧倒的な支持で、見事裕美子がNo.1
第3回にして、始めて〔ママ〕女優が出演していない生撮りが最優秀作品賞に輝いた。それだけ、この作品の主役である素人美少女・田所裕美子の可愛らしさが、プロである女優を凌いだともいえる。
しかし、それだけでは、最優秀に選ばれる程のヒットを呼ばなかったであろう。
最大の要因は、本当に素人らしい彼女の、大胆にも、簡単に本番をさせてしまった意外性といえる。こんなにあどけなく、フツーの娘でもやっぱりあんなことやるんだなぁ、という素朴な興奮。ビデオ・ファンでないと味わえないトリップを裕美子の喘ぎは与えてくれた〔後略〕。(『ビデオプレスDELUXE』Vol.2)
拙著『痴女の誕生』(太田出版 2016年)で取材したAVライターの沢木毅彦は『ミス本番・裕美子19歳』を見た時の衝撃をこう語っている。
「ホントにこんな可愛いコがアダルトビデオに出てるのかって、信じられなかったね。彼女には、それまでAVに出てた女の子とは全然違う可愛らしさがあったんだ」
「それまでのコは、どんなに可愛くても、風俗嬢っぽいというか、プロっぽいムードがあったんだよね。でも、田所裕美子は本当に素人っぽかった。もしかしたら処女なんじゃないかって思わせるほどだった。そんな女の子がビデオカメラの前で、裸になって、セックスを見せるなんて、ありえないと思ったよ」
1983年に創刊した『ビデオ・ザ・ワールド』(白夜書房)は、2013年まで30年の長きに渡って刊行された日本を代表するAV雑誌だ。AV専門誌としては1982年創刊の『ビデオプレス』に次いで二番目となる。
その創刊号(1983年11月号)のヌードグラビアに田所裕美子が登場している。
キャッチコピーすらなく、最後のページの下に「田所裕美子ちゃんの本番ビデオが10月中旬に宇宙企画より『ミス本番裕美子19才』(30分¥12000円)で発売されます」と書かれているのみ。田所裕美子が誰なのか、まったくわからない。
実際、田所裕美子は『ミス本番・裕美子19歳』以前の活動歴のない、全くの素人女性だったのだ。
80年代の宇宙企画黄金時代を支えた監督であるさいとうまことは、こう証言している。
「連れてきた女性というのが、いわゆるモデル斡旋業のひとじゃなかったんだよね。だからまぁ、宇宙におまかせしますみたいな感じだった」(東良美季『アダルトビデオジェネレーション』メディアワークス 1999年)
田所裕美子が業界に通じたプロダクションの所属ではなかったということが、宇宙企画にとっては幸運となった。
この時期において、まだまだ「本番」はハードルの高い過激な行為だったのだ。本番を売りにしたAVはたくさん販売されていたが、その多くは疑似本番だった。
映画『白日夢』での本番撮影で名を上げた愛染恭子が、AVでは疑似本番しかせず、またその愛染恭子と名コンビであった代々木忠監督も、モデルに直前で本番撮影を拒否されたがゆえに『ドキュメント ザ・オナニー』が生まれたという経緯を思い出して欲しい。
田所裕美子クラスの可愛らしいルックスの「上玉」モデルであれば、本来ならば本番はありえなかったのだ。
しかし、彼女も、紹介した女性も当時の業界の常識を知らなかったため、スタッフに言われるがままに本番撮影を受け入れてしまったのだろう。
こうして、清楚な素人美少女による本番AV『ミス本番・裕美子19歳』は1984年1月に発売され(『ビデオ・ザ・ワールド』には1983年10月と告知され、ビデ倫の審査番号が83688となっているところを見ると発売が遅れたようだ)、二万本という大ヒットを記録した。
こうして宇宙企画は『ミス本番』シリーズや『私、本当にXXしちゃった』シリーズなどで、「可愛い女の子が本番をする」という路線を突き進み、次々とヒットを飛ばす。
そうなると、当然のように他のメーカーもこれに追随。「本番」「美少女」をタイトルにつけた生撮りシリーズが市場に溢れた。
『ビデオプレス』1984年3月号に、ピンク映画の名付け親でもある村井実による「84年、アダルト・ビデオは変革する」という記事には、この時期のAV業界の勢力地図の変動、すなわち成人映画陣営の衰退が見て取れる。
去年の暮、にっかつは9人の女優と専属契約した。
にっかつに出演している女優たちがつぎつぎと、ポルノビデオに出演してそれが売れているので影響甚大なのだ。
ポルノビデオが売れれば、にっかつロマン・ポルノの上映館はあがったりだ。
そこで、女優に、専属料を払い他社作品やポルノビデオに出演しないように縛り付けておくというわけだ。
つまりポルノビデオ業界に対する牽制球である。
70年代からアダルトメディアの王者に君臨していたにっかつロマンポルノの危機感が伝わってくる。
これが『ミス本番・裕美子19歳』ヒット前に発表された戦略であることを差し引いても、にっかつが時代とズレてしまっていることがよくわかる。
もはやAVは「女優」の時代ではなくなっていたのだ。
素人っぽい可愛らしい女の子の生々しい痴態が、この時のAVユーザーに求められていたものだったのだ。
内容も黎明期に見られた成人映画的なドラマ仕立てのものから、ドキュメント性を重視した作品が中心となっていく。
そうなると、それまで優位に立っていた成人映画系メーカーは、アドバンテージがなくなってしまう。
以降のAV業界は、宇宙企画(ハミング社)、KUKI(九鬼)、VIP(群雄社出版)などのビニ本系を中心とする新興メーカーが主流となっていく。
そして、にっかつロマンポルノ自体も、1985年に本番やビデオ的な撮影を売りにしたAV的な『ロマンX』路線をスタートさせた後、1988年に制作を終了することになった。
1984年のもうひとつの大きな事件がアダルトアニメの台頭だった。
ブルーフィルムの項で紹介したように、昭和初期に早くも日本初のアダルトアニメ『すヾみ舟』が作られていたように、日本人にとって、アニメで性表現を描きたいという欲望は強かったのだろう。
60年代末から70年代にかけて手塚治虫率いる虫プロダクションが『千夜一夜物語』などの大人向け劇場アニメをヒットさせたり、東映が成人指定のポルノアニメ『(秘)劇画 浮世絵千一夜』を制作するなど、アダルトアニメへの試みは古くからあった。
オリジナルビデオのアダルトアニメの第一号は、1984年2月に発売された『雪の紅化粧・少女薔薇刑』(ワンダーキッズ)である。中島史雄の漫画をアニメ化したもので、第二弾の『何日子の死んでもいい・いけにえの祭壇』までは原作のタッチを活かした劇画調であったが、三作目の『仔猫ちゃんのいる店』からは、アニメ調の絵柄に大きく変化させた。
時流に合わない劇画調だったため、一、二作目は売れなかったと言われているがAV専門誌『ビデパル』(東京三世社)1985年1月号掲載のインタビューを見ると「第一、二弾が5000本、三弾が8000本」と述べられているので、最初の二作も十分ヒットしていたようだ。やはり「アニメのエロ」に対する興味は高かったのだ。
そしてこの年、記録的な大ヒットとなったのが『くりいむレモン』(フェアリーダスト/創映新社)だった。
こちらも『ビデパル』1985年1月号掲載のフェアリーダストへのインタビューを見てみよう。
—-売れていますね。どのヒットチャートを見ても『くりいむレモン』が第一位です。
F 我々はこれまでマクロスとかうる星やつらとか手がけてきました。ポルノというよりアニメの延長ということでやってますから、単にエロアニメとは思ってません。これが一般のニーズに応えることができた理由だと思います。
—-実際どれくらい売れてますか。
F 一万本は超えてますから。年内に15000は行くのではなきかと。
—-2タイトルともに。
F はい。両方で30000。我々も非常にびっくりしてます。まさかこんなに出るとは。……はじめは5000本を目安にしてましたから。もう一ヶ月で一万本いきまして。すごいパワーですね。
ちょうど盛り上がりを見せていたアニメブーム、ロリコンブームとシンクロする形でアダルトアニメブームは過熱し、それまでとは全く違う層のユーザーを開拓することとなった。
こうなると当然、他社も続々と参入し、アダルトアニメは一気にブームとなる。
中でも『くりいむレモン』は、ラジオ番組や書籍、ゲーム、レコードなどのマルチメディア展開をしたこともあり、中高生のファンも多かった。特に第一作『媚・妹・Baby』のヒロインである亜美は、多くの続編や関連作が作られ、アイドル的な人気を得た。
しかし『ビデパル』のインタビューで驚かされるのは、アダルトアニメの制作費だ。ワンダーキッズは「制作費は1500万円」「セル画は8000枚」、フェアリーダストは「2000万円。3,4は音楽をハイファイにしているので500万くらいオーバー」「(セル画は)1,2は6000枚。普通テレビでは3000〜5000くらいですから使ってるほうです。3,4は通常枚数より大幅に出ちゃって、4なんか8000枚超えちゃって……」と答えている。インタビュアーも「25分で8000枚!」と絶句している。
これだけの制作費がかかるとなれば、外れた時のダメージも大きい。多くの制作会社は数年のうちにアダルトアニメ市場から撤退していったが、『くりいむレモン』はリニューアルを繰り返しながら、21世紀までそのブランドを維持した。
『ビデオプレス』1983年8月号、1984年3月号
『ビデオプレスDELUXE Vol.2』(大亜出版)
『ビデオ・ザ・ワールド』1983年11月号(白夜書房)
『ビデパル』1985年1月号(東京三世社)
『アダルトビデオ10年史』(東京三世社)
「80年代AV大全」(双葉社 1999年)
東良美季『アダルトビデオジェネレーション』(メディアワークス 1999年)
Rio YASUDA
フリーライター、アダルトメディア研究家。主な著書に『痴女の誕生』『巨乳の誕生』『日本エロ本全史』(全て太田出版)、『AV女優、のち』(角川新書)、『ヘアヌードの誕生』(イースト・プレス)など。