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2021.10.25

08 第一次AVブーム[1]
美少女戦争の始まり

安田理央

1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。

黎明期の終わりと黄金期の始まり

AVが誕生した1981年には、わずか5.1%に過ぎなかった家庭用ビデオデッキの普及率が1984年には18.7%、そして翌1985年には一気に27.8%にはねあがる。全体の3割近い家庭にビデオデッキが置かれるようになったのだ。

これはビデオデッキの低価格化、そしてレンタルビデオ店が普及したことが理由だった。1台20万円もしたビデオデッキが、初の10万円機であるナショナルのNV-U1(愛称:マックロードYOU 1985年)の発売をきっかけに低価格戦争に突入。

またそれまで一本1万円以上という価格で購入しなければならなかったビデオソフトがレンタルビデオ店で安価で借りられるようになった(とはいえ、初期はレンタル代も1000円以上とかなり高価であったが……)ことは大きかった。

ビデオソフトのレンタルはそれ以前にも違法に行われていたのだが、1983年に日本ビデオ協会がメーカーから許諾を受けた個人向けレンタルビデオシステムを発表し、合法的なビジネスとなったのだ。これによりレンタルビデオ店が急増。ビデオソフトは買うものから借りるものへと移り変わり、一気にユーザー層が広がった。もちろんAV業界にとっても、それは追い風となった。

それまで一部のマニアの買うものであったAVが、ライトユーザーも見るものへと変わっていったのだ。またユーザー層も裕福な中高年から、若者へとシフトしていった。

AVの内容もSMなどのマニアックなものから、若くて可愛らしい美少女モデルが出演するものが中心となっていく。前項で書いた「美少女本番」物や、「美少女アニメ」物のブームはこうした状況が背景にあった。

また、状況の変化は業界の勢力地図にも影響を与えた。AVの黎明期を支えたトップメーカーであった日本ビデオ映像や、八神康子の出演作など多くのヒット作を産んだボルドー、パロディ物を得意としていたボックスランドなどのメーカーが次々と倒産。

その一方で勢力を伸ばしていったのが、「美少女本番」物で独走する宇宙企画、そしてその宇宙企画のソフト路線に対抗するようにハードな路線を追求するSAMMだった。

1985年にはそれまで三連覇を果たしていた八神康子のビデオ・クィーン(『ビデオプレス』ビデオ・クィーン・コンテスト)の座を竹下ゆかりが奪取するという事件もあった。

竹下ゆかりは歌舞伎町のファッションヘルス店で働いたり、ビニ本のモデルとして活躍した後、1984年に『私を女優にしてください 何でもします』(宇宙企画)でデビュー。

実は風俗嬢時代に、エルザという源氏名で『ビデオスキャンダル1 個室アイドル戦争 いかせてあげる』(VIP)にも出演しており、この作品の監督である高槻彰にスカウトされたことがAVデビューにつながっている。

また竹下ゆかりは『オレンジ通信』(東京三世社)の1985年度の読者が選ぶモデルベスト1位にも選ばれている。彼女が1985年という年を代表するAV女優であったことは間違いない。

愛くるしい顔立ちでありながら、デビュー作のタイトルの「何でもします」に象徴されるようにハードなプレイもこなした竹下ゆかりが、オナニーがメインでありソフトなカラミしか見せることのなかった八神康子を女王の座から追い落としたのは時代の変化の象徴のようにも思えた。

ビデオ・クィーンを受賞した号の『ビデオプレス』では、竹下ゆかりをこんな風に紹介している。

 

彗星のようにデビューするやいなや、一気にビデオ・クィーンの座に登りつめた竹下ゆかり。彼女の人気の秘密は、何といってもどこにでもいるような普通の女の子っぽいところだろう。同じ性風俗の出身でも、先輩格のイブと比べてグッと庶民的なのだ。こんな妹がいたら、と思う読者も多いのではないだろうか。
 女優になるためだったら、たとえ本番だってトライするという現代っ子 ギャルらしい突撃精神。幼さとオトナの色気が微妙にミックスされ、その顔からは想像も出来ないような大胆なファックシーンを見せてくれるゆかり。それが見る者のハートを熱くさせずにはおかないのだろう。(『ビデオプレス』1985年3月号)

もっとも竹下ゆかりも、実際にはAV作品では全て疑似本番であったと『オレンジ通信』のモデルベスト1位受賞記念インタビューなどで語っている。

アナルファック初体験の苦痛に満ちた表情が話題となり大ヒットした『ゆかりの肛門初体験』(ZAPPA)も当然疑似だったのだが、その事実を知って落胆したファンも多かったようだ。

ゆかり「えーとね、自分の中で想像が色々できるんです。例えば『肛門初体験』だと実際には触られてるだけなんですね。でも実際に『ああ、アレ入ったら痛いだろうな』とか、『こんなことされてもヨがっちゃうんだなァ』とかね。考えるのも面白い」(『オレンジ通信』1986年2月号)

このインタビューではファンの年齢層を聞かれて「やっぱり高校生、大学生が圧倒的です」と答えており、この当時のAVファンの低年齢化が伺える。

竹下ゆかりはAVでのブレイクを機に、『先生、私の体に火をつけない』などのにっかつロマンポルノ、「毎度おさわがせします」などのドラマ、「オールナイトフジ」などのバラエティ番組にも出演。

AV女優がテレビなどに進出する先駆け的存在でもあった。

美少女戦争の勃発

八神康子、竹下ゆかりがAVデビュー以前にビニ本モデルとして活躍していたことは書いたが、1984年の年末には、「マリア」や「少女ケイト」といった裏本で圧倒的な人気を誇っていたモデル、通称マリアが、渡瀬ミクの名前で宇宙企画から『トワイライトゲームズ』でAVデビューを果たしている。

ただし渡瀬ミクが「マリア」であることは伏せられ、その内容も極めてソフトなものであった。裏本では激しいファックを無修正で見せていたのに、と肩透かしを感じた裏本ファンもいたが、一般的には正統派美少女モデルとして受け入れられたようだ。

またこの時期には、やはり裏本やビニ本の人気モデルであった滝川真子、『みえちゃった』『ハッピーバースデイ』などの裏ビデオで当時としては衝撃的なほどの巨乳を披露して話題となっていた菊池エリなどもAVデビューしている。

風俗やビニ本、裏本、裏ビデオなどで活躍した後にAVにデビューするというコースが出来始め、そうしたモデルが日活ロマンポルノやピンク映画の女優を凌ぐ人気を集めるようになる。

この時期になると、黎明期のように成人映画の延長とも言える内容の作品は姿を消し、ビデオ撮影の特性を活かしたドキュメント色が強いものや、イメージ映像を押し出したものが増えており、AVとしての独自のスタイルが確立されていた。

メーカーも増加し、ビデ倫の審査本数も月100本を超えた。つまり毎月100タイトル以上のAVが発売されるという状況となった。そうなると出演するAV女優の数も膨れ上がっていく。

企画や内容よりも、どれだけ人気のある可愛い子が出演しているかが、売り上げを左右した。メーカーは血眼になって、出演女優を探した。その中からAVアイドルとも言うべき、人気女優が登場していく。

吉沢有希子の名前で『ミス本番・有希子』(宇宙企画)でデビューし、その後改名して長く活動することになる早見瞳、あどけない顔立ちで人気があった永井陽子、現役女子大生として売り出した森田水絵、演技にも定評があった井上あんり、どこか陰のあるキャラクターが魅力的だった中沢慶子、当時としては珍しくアダルトな雰囲気の美女・中川えり子など、多くの人気女優が1984年末から1985年にかけてデビューした。

そんな中でも特筆しておきたいのが宇宙企画から『ヒロイン愛美』でデビューした早川愛美だ。


『ヒロイン愛美』(英知出版、1985)

もともとは高田馬場のファッションヘルスに在籍していた風俗嬢で、アメリカ人とのクォーターだというその美貌から超人気ヘルス嬢としてテレビ番組などにも出演し、話題となっていた。

しかしそうした肩書は一切伏せられた形でAVデビュー。人気ヘルス嬢としてマスコミに多数登場しており、芸名もそのまま使っているので、公然の秘密という感じはあったが、渡瀬ミクが「マリア」であることを隠していたことと同様に、宇宙企画が得意とした「清楚な美少女」というキャラクターづけのためには必要な戦略だったのだろう。

AV情報誌の林立

1982年には『ビデオプレス』一誌だけだったAV情報誌も、1983年に『ビデオ・ザ・ワールド』、1984年に『ビデパル』(フロム出版)、『ビデオエックス』(笠倉出版社)、1985年に『さくらんぼ通信』(ミリオン出版)と80年代半ばには乱立状態となっていた。それまでビニ本や裏本、裏ビデオを中心に扱っていた『オレンジ通信』(東京三世社)『アップル通信』(三和出版)も、AVに比重を置き始めていた。

そんな中で最も売り上げを伸ばしていたのが英知出版の『ビデオボーイ』(1984年創刊)だった。撮り下ろしグラビアに力を入れるなどビジュアル中心の誌面が、他のビデオ情報誌とは異なる魅力である。

英知出版は、『ビデオボーイ』を皮切りに『ベッピン』『デラべっぴん』『すっぴん』『ベッピンハイスクール』などビジュアルに力を入れた雑誌を次々と創刊。印刷の仕上がりにまでこだわったグラビアの美しさは、それまでのエロ本とは一線を画していた。

そして何よりも、ノスタルジックな幻想の美少女像を描き出す、その独特なカラーが若い読者から圧倒的な支持を受けた。セクシーよりも清純・清楚。そんな女の子が裸を見せるというギャップが強いインパクトを与えたのだ。

そしてそれは兄弟会社である宇宙企画のカラーでもあった。英知出版の雑誌や写真集でまずヌードグラビアを公開して人気を高めた後に宇宙企画でデビューさせるというメディアミックスの先駆けのような手法で、人気女優を生み出していったのだ。

しかしAVといっても、その内容は極めてソフトなものだった。セックスシーンはもちろん疑似、それどころかセックスシーンすらなく、オナニー止まりという作品すらあった。むしろセーラー服やヌードでのイメージ映像が作品のメインだった。

現在なら18禁指定のないイメージビデオのジャンルに含まれるようなソフトな内容ではあったが、それでも宇宙企画のAVはヒットし、宇宙企画の女優はAVの枠を超えた人気で支持された。女の子が可愛らしければ、内容が過激じゃなくても売れる。むしろ過激で無いほうが、清楚なイメージを強調できる。

といっても、この頃はフェラチオを見せるだけで「過激」と言われていたほどなので、後のAVの基準とは全く違う。当時の人気女優の一人である永井陽子が、フェラチオを解禁したのが1985年のデビューから2年後の1987年の『おクチ初体験』(現映社)だったというのは今からは考えられないだろう。

実際には、それなりに遊んでいたり、風俗嬢だったという彼女たちだが、イメージを強調した演出と作り込まれたキャラクター戦略によって、美少女アイドルとして生まれ変わったのだ。

英知出版=宇宙企画の人気女優たちは、後に宇宙少女と呼ばれ、合同イベントなども行い、グループアイドル的な売り出し方もされた。そのリーダー的存在として活動し、宇宙企画のシンボルとなったのが早川愛美だったのだ。

ハード路線の旗手たち

宇宙企画のソフトな美少女路線は人気を集めていたが、その一方でそれでは満足できない層から支持されていたのが、SAMMなどのハード路線を追求するメーカーだった。

SAMMは六本木のSMサロンとして誕生した。その後にサム・ビデオ・センターとして本格的なSMビデオをリリースし始める。1984年には株式会社芳友舎を設立し、SAMMはそのメインレーベルとなる。

SMなどのマニアックなメーカーであったSAMMが一躍脚光を浴びたのは1985年にリリースされた『マクロボディ㈵ 奥までのぞいて』のヒットがきっかけだった。

『マクロボディ㈵ 奥までのぞいて』はブリーフ越しの濃厚なフェラチオシーンやクスコによって女性器の内部まで映し出すというビデ倫審査の限界に挑戦したような過激な映像が話題を呼んだ作品だ。

『オレンジ通信』でAVライター6人が選んだ1985年度アダルトビデオ第一位を獲得している。ハニー白熊による作品評を見てみよう。

ビニ本・自販機本の最良の部分が、この作品には込められている。コンテを作りあげた監督とNO1女優・橘美恵子のプロ精神には満点の評価を与えたい。

 このところ、またグッと人気が出てきて雑誌でも取り上げられることの多い『マクロボディ』。見なおして、あらためて「スケベやなー」という感じ。後半のシックスナイン→対面座位→正常位→膣外射精に至る本番のリアルさ、アングルの斬新さ、消しのキワどさは言うまでもないけど、その真骨頂は前半のどアップを多用した女体フェチぶりにあります。
 股間アップ、顔面パーツのアップ、オシッコ、クスコによる膣内部開陳、同じく肛門開陳。映画的なくささをいっさい排して、最上の出来のビニール本を一枚一枚めくっていくような、静かな内に緊張のこめられた絵づくりは文句のつけようがありません。そしてそれを可能にしたのがモデル・橘恵美子のサービス精神と言えます。(『オレンジ通信』1986年2月号)

『マクロボディ㈵ 奥までのぞいて』の監督は豊田薫。自販機本の編集者を経て、1985年にKUKIの『少女うさぎ・ひねり腰絶頂』でAV監督としてデビュー。

『少女うさぎ・ひねり腰絶頂』は人気テレビ番組『オールナイトフジ』(フジテレビ系)に出演していた女子大生グループ、オールナイターズの一員であった高野みどり主演ということで話題を呼んだが、それ以上に独自の世界観を見せつける内容も評価され、『オレンジ通信』の1985年度アダルトビデオ第4位にも選出されている。この年、豊田薫はデビュー一年目にして、2作品をベストテン内に入れているということだ。

 初めてこれを観た時、なんつーかブッとんだ。こいつあ凄い、ただそれだけ思った。『まァな、オンナの裸が出てて、そんでもってアヘアヘってなことやっときゃあそれでイイんだよな』的な安直なとしか思えないよーなものが多いアダルト・ビデオの中にあって、それはちょっぴり輝いて見えた。思わず『ふーん』と関心してしまう程丁寧に作ってある。『ふと出会った男と少女がおもむくままにFUCKに耽る、と云った束の間のドラマなのだけれども、極端に少ないセリフのお陰で、妙な生々しさ、生の感じが不思議な迫力を出していてついつい引き込まれていってしまうわけで、実に演出力の勝利なのだと思う。つい最近、この作品を撮ったのが『マクロボディ』で評判のサムの豊田氏と知った。う〜ん、なるほどね。(大塚浩之『オレンジ通信』1986年2月号)


『オレンジ通信』1986年2月号

KUKIからSAMMへと活躍の場を移した豊田薫は、以降も挑戦的な話題作を撮り続け美少女ハード路線の代表的な監督としてAVシーンを牽引していくことになる。

そしてこの年、もうひとりのハード路線の監督が頭角を現し始めていた。近年、Netflixのドラマ『全裸監督』のモデルとなり再び脚光を浴びている村西とおるである。

日本最大の裏本制作・販売会社を築きあげ、裏の帝王と呼ばれていた村西とおるが、逮捕されて何もかもを失った後に、AV制作へと転身。クリスタル映像というメーカーで1984年から精力的に作品を撮っていたが、それまでに映像制作の経験がなかったこともあり、稚拙な内容のものがほとんどだった。

しかし映像の知識がないが故に、作品を重ねるにつれ、既存のセオリーに縛られない独自の世界が生まれていったのだ。

『オレンジ通信』の1985年度アダルトビデオ年間ベストでは、『TWO TO LOVE 愛ふたつ』が豊田薫監督の『マクロボディ㈵ 奥までのぞいて』に次いで2位を獲得。

そして『恥辱の女』が『ビデオ・ザ・ワールド』の1985年度アダルトビデオ・リアルベスト10の第1位に輝いたのだ。

『TWO TO LOVE 愛ふたつ』も『恥辱の女』も、主演は立川ひとみ。膣が2つあるというふれこみで話題となった女優だ。『TWO TO LOVE 愛ふたつ』では駅弁ファックをしながらコペンハーゲンの歩行者天国を駆け抜けさせ、『恥辱の女』ではレンタルビデオ店や焼肉屋、観光地の土産物屋などでSMプレイを決行。ハプニング性の強いドキュメントタッチで迫力のある作品となっている。それは正に映像のセオリーを知らないからこそ撮ることが出来たのだろう。


『恥辱の女』(1985)

その誕生時には、成人映画の下位互換に位置づけられていたAVは、早くも独自の映像スタイルを構築していたのである。

<参考資料>

『ビデオプレス』1985年3月号(大亜出版)
『オレンジ通信』1986年2月号(東京三世社)
『アダルトビデオ10年史』(東京三世社)
『80年代AV大全』(双葉社、1999)
藤木TDC『アダルトビデオ革命史』(幻冬舎新書、2009)