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2021.11.24

11 第一次AVブーム[4]
ダイヤモンド帝国と巨乳ブーム

安田理央

1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。

巨乳の誕生

昭和から平成に年号が変わった1989年の2月に一人のAV女優がダイヤモンド映像からデビューした。

ダイヤモンド映像は前年の9月に、村西とおるがクリスタル映像から独立して設立した新メーカーだった。

しかしダイヤモンド映像の活動がスタートした矢先に村西とおるが児童福祉法違反容疑で逮捕されてしまう。クリスタル映像時代の作品に出演した女優の実年齢が16歳だったのだ。その女優は姉の健康保険証を自分のものだと偽っていたのだが、それでも彼女の面接を担当した村西とおるが逮捕されることとなった。村西がAV業界を象徴する有名人であり、日本ナイス党なる政党を立ち上げて参議院選挙に立候補するなどと公言していたことが当局を刺激したため、見せしめとしての逮捕の意味あいが強かったと思われる。

村西とおるが児童福祉法違反で逮捕されるのは、これが三回目であった。そのためビデ倫が村西とおる監督作品の審査を拒否するという通達をした。

誕生したばかりのダイヤモンド映像は、看板監督が作品を撮ることができないという状況に追い込まれた。ダイヤモンド映像はセールス面で苦しい状況での船出となったのだ。早くも倒産してしまうのではないかという噂が囁かれた。

そんな窮状を救ったのが松坂季実子だった。『でっか〜いの、めっけ』でデビューした19歳の女子大生は、あまりにも巨大な乳房を持っていた。カメラの前で彼女が初めて服を脱いだ時、その場にいたスタッフは驚きを隠せなかった。


『でっか〜いの、めっけ』(ダイヤモンド映像、1989)

80年代中頃にも「Dカップ」ブームはあった。60年代後半から使われていた「ボイン」、そして70年代に入ってから広まった「デカパイ」に続いて80年代に定着した大きな胸を表す表現が「Dカップ」だった。

当時はまだ日本人女性の胸の標準サイズが小さかったこともあるが、カップ表記の異なるアメリカで「Dカップ」が巨乳を意味していたことから、まず『バチェラー』(大亜出版)のような洋物ポルノ雑誌で「Dカップ」という表現が使われるようになり、それが次第に広まっていった。当時は胸の大きなAV女優は、ひとまとめに「Dカップ女優」と呼ばれていたが、実際に計測するとEカップ、Fカップという場合も多かったようだ。

エロ本や初期のAVで活躍した中村京子を筆頭に、菊池エリ、冴島奈緒、立原友香、葉山みどりなどが、Dカップ女優として人気があった。しかし80年代において、胸の大きなAV女優は決して主流ではなかった。胸の大きさはあまり重視されず、むしろスレンダーな美人、もしくは幼児体型の美少女が好まれていたのだ。

そこに登場したのが並外れた大きさの乳房の持ち主である松坂季実子であった。1107mmのGカップという公称サイズだったが、1107mmは村西とおるが「イイオンナ」にかけただけだったらしい。ただ、現在の計測ならGカップ以上のカップ数になるだろう。当時のカップ計測はかなりいい加減だったのだ。

松坂季実子は一般週刊誌などでも大きく取り上げられ、『でっか〜いの、めっけ』も大ヒットを記録する。

ダイヤモンド映像はこの一作で息を吹き返した。それから毎月1日を「巨乳の日」と銘打って松坂季実子の新作を発売。いずれも売れに売れた。

大きな乳房を表現する言葉として最もポピュラーな「巨乳」は、この松坂季実子の登場を機に定着した。それ以前にも「巨乳」は使われることはあったが、『バチェラー』などの一部マニア誌などに留まっていた。それが一気に広まったのは、松坂季実子の大きすぎる乳房を表現するためだったのだ。

ちなみに、実は村西とおる自身はスレンダー好きで巨乳に興味がなかったため、当初はあまり松坂季実子の売出しに対して積極的ではなかったそうだが、撮影を担当した沢木昭彦監督らの熱心な勧めによって彼女を専属女優としたのだと言う。

巨乳ブームと過激美少女ブーム

松坂季実子のブレイクによってAV業界には巨乳ブームが巻き起こる。

1989年には、椎名このみ、東美由紀、いとうしいな、加山なつ子、庄司みゆき、エルザ、中原絵美、工藤ひとみ、五島めぐと言った巨乳女優が次々とデビューを飾る。

しかし、もちろんこの年に日本の女性の胸が急に大きくなったわけではない。巨乳にニーズがあるとわかったAVメーカーが積極的に胸の大きな女優を売り出すようになったためである。

日本の「巨乳」の歴史を追った拙著『巨乳の誕生 大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか』(太田出版、2017年)の取材で、高槻彰監督はこう証言している。

「松坂季実子が登場してブレイクしたのは嬉しかったですね。それまでにも僕は自分が好きだから、こういう胸がすごく大きくて少し太めのタイプの子を何人も見つけて、『撮りませんか?』って持っていってたんだけど、みんな拒否されてたんです。その時に求められてたのは、とにかく痩せてる美人だったから。だから松坂季実子が売れたことで、初めて肉の魅力が認められたんですよ」

それまでのAV女優は、あくまでも「顔が可愛い(綺麗)」という点が重要であった。しかし前年の淫乱ブームは、「淫乱」というキャラクターでも売れるという事実を業界に知らしめた。そして巨乳というボディパーツの魅力もまた、大きなセールスポイントとなることにも気づいたわけである。

『オレンジ通信』の「1989年度で読者が最も『お世話になった』女優」である艶技女優賞の1位を松坂季実子が獲得。アイドル女優賞でも4位に入賞している。

そしてこの年の『オレンジ通信』アイドル女優賞1位となったのが樹まり子だった。


『オレンジ通信』1990年2月号

樹まり子もまたEカップのグラマラスなボディの持ち主であった。しかし樹まり子の人気はそれ以上にハードな本番をこなしていたことにもあった。

デビュー作の『素晴らしき日曜日』(青木さえ子名義、ダイヤモンド映像)からいきなり6人の男優を相手にし、うち4人と本番ファックを披露。さらに濃厚なフェラチオが話題を呼んだ。その他の作品でも3P、4P、そしてSMなど、当時の単体女優としては異例なまでの過激なプレイに挑戦し人気を集めた。デビューからの一年間に50本もの作品に出演したというのも当時としては別格の人気の証明となった。

この年には林由美香もデビューしている。肉感的な樹まり子とは対照的にスレンダーボディでコケティッシュな美少女だが、彼女もまた本番を公言していた異例の女優だった。

『オレンジ通信』1990年2月号掲載の1989年のAVシーンを総括する水津宏の原稿では樹まり子と林由美香について、「ふたりに共通しているのは、どちらも本番している事を公言してはばからないところだ。今までは本番をしたとしても隠したり、最初は本番しても人気が出ると本番をしなくなったりするのだが、彼女たちは全く逆。胸を張るところが凄い」と評している。この時期は、まだ「売れる女優は本番をしない」ことが当然だったのだ。それがこの二人の活躍によって崩れ始める。

可愛くて人気があっても本番をする、そんな「過激美少女」の存在を決定づけたのは桜樹ルイだった。

桜樹ルイは、アイドルグループであるモモコクラブ桃組に所属した後に一ノ瀬雅子名義で1989年にAVデビュー。さらに1990年に桜樹ルイに改名してVIPから『突然、炎のように』で再デビューしている。


『突然、炎のように』(1990)

しかし彼女の人気に火がついたのはダイヤモンド映像に移籍し、本番路線に移行してからだ。

実際にアイドルとして活動(桜樹ルイとしての再デビュー時にもクラウンからCDデビューも果たしている)していたほどの愛くるしいルックスにもかかわらず、ハードで濃厚な本番を見せた彼女は当然のように圧倒的な人気を得た。

『オレンジ通信』1990年度アイドル女優賞1位、さらに『アップル通信』の1991年度年間女優ランキングでも1位を獲得。

可愛くて、しっかり本番も見せるという新しいAV女優の新しいスタイルを確立した。

とは言え、1990年には疑似本番でソフトなセックスしか見せないものの、その可憐な美少女ぶりで圧倒的な人気を誇った星野ひかるのような存在もあったのだが。

進撃のダイヤモンド帝国

桜樹ルイが『オレンジ通信』アイドル女優賞1位を獲得した1990年度に、艶技女優賞1位に選ばれたのはグラマラスな美女、田中露央沙。どちらもダイヤモンド映像の専属女優であった。


『オレンジ通信』1991年2月号

松坂季実子のブレイクによって勢いづいたダイヤモンド映像は拡大路線を取った。

柏原芳恵、川島なお美、杉本彩、高樹澪などタレントやアイドルのイメージビデオを手掛けるパワースポーツ企画販売、ダイヤモンド映像より個々の監督色を強めたビックマン、鬼才監督として知られる伊勢麟太郎がプロデュースする裸の王様、そして当時天才監督として名を馳せた豊田薫のヴィーナスと言ったグループメーカーを次々と設立。この時期の日本のAV市場の4割をダイヤモンド映像グループが占めているのではないかと言われたほどだった。


『ダイヤモンド映像 総合カタログ』1990年6月

元ミス日本東京代表の肩書を持つ卑弥呼、あどけない顔立ちながらも脇毛を生やしていた小鳩美愛、セックス中も眼鏡をかけているのが新鮮だった野坂なつみ、お嬢様的なムードの高倉真理子、インテリジェンスを感じさせる痴女・藤小雪、そして後に村西夫人となる乃木真理子など、ダイヤモンド映像専属女優も豪華な布陣となっていた。

女優たちのギャラも一本300万円から500万円と業界の常識を超えたものだったが、監督にも相場を遥かに超える金額のギャラを払っていた。

村西とおるの半生を追った本橋信宏のノンフィクション『全裸監督』(太田出版、2016年)には当時の村西のこんな発言が書かれている。

「こっちは金を使いたくてしょうがないんだから。使い方が足りないんですよ。もっともっともっと使ってもらわないと。なにかそのへんの通行人のほっぺた札束ではたいて出演させましょうか。こうなったら」

日本経済同様、ダイヤモンド映像はバブルに踊っていた。

この時期からメーカーがAV女優と専属契約を結ぶことが増えていた。先駆けとなったのは宇宙企画だったが、やはりダイヤモンド映像の快進撃がその傾向に拍車をかけたのだろう。

VIP・ステラ系が今井静香や弓月薫、SAMM・ティファニー系が星野ひかるを、というように女優の囲い込みが進んだ。それまでは、どれだけ多くのメーカーで何本出演したのかが人気女優のバロメーターであったが、以降はメーカーの専属になることが人気女優の条件となっていく。

<参考資料>

『オレンジ通信』1990年2月号、1991年2月号(東京三世社)
『アダルトビデオ10年史』(東京三世社、1991)
『アダルトビデオ20年史』(東京三世社、1998)
『80年代AV大全』(双葉社、1999)
本橋信宏『アダルトビデオ』(飛鳥新社、1998)
本橋信宏『全裸監督』(太田出版、2016)