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じゃっ夏なんで
じゃっ夏なんで
1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。
ハメ撮りという手法を完成させたと言える監督がカンパニー松尾だ。
今なお第一線のAV監督としてハメ撮りにこだわった活躍をしているため、ハメ撮りの代名詞的な存在となっている。
カンパニー松尾は1987年に安達かおる監督が設立したV&Rプランニングに入社。ADとして働いた後、1988年に『あぶない放課後2』で監督デビューを飾る。この時、松尾はまだ22歳だった。
初期のカンパニー松尾はドラマ物が中心であり、MTVに影響されたエフェクトを多用したカラフルな作風が特徴だった。
それが次第に松尾の心情を吐露したテロップが多用されるようになっていく。自分の思いをAVに込めるという私小説的な構造を持ち始めたのだ。
これは『ボディプレス』編集長からAV監督に転身した東良美季が撮った『恋歌1987オマージュ/大滝かつ美』(1987年、サム)に影響を受けたのだと松尾は語っている。
『オマージュ』は、かつて東良と恋愛関係にあった大滝かつ美への個人的な思いを託したドラマ作品だった。こういう手法もあるのかと驚いた松尾は、撮影の過程で恋愛感情を持ってしまった林由美香の主演作『硬式ペナス』を「個人的なラブレター」として編集する。
しかし、そうなると男優に自身を投影することが、間接的な表現であり、不自然だと松尾は考えた。
そこで松尾が取ったのはハメ撮りという手法だった。男優ではなく監督である自分が自らセックスをして、撮影すればいい。
僕のAV監督としての二十数年間を総括すると、林由美香の存在はすごく大きい。AVの中で自分の感情を出すスタイルのきっかけになった人だし、ハメ撮りをしたいと思ったのも彼女を撮ってから。自分が好きになった女優に男優をあてがって、気持いいかって後から聞くのは、なんかおかしいなって。そこに納得いかなかったから自分でカメラを持ってやろうと思ったんです。(「AV30 メーカー横断ベスト!!! カンパニー松尾8時間」ライナーノート、オールアダルトジャパン、2011年)
そのスタイルが完成されたのは1991年からスタートする「私を女優にして下さい」シリーズだった。出演を希望する素人女性の元に松尾が一人で出かけていき、8ミリビデオカメラでハメ撮りする。その旅行の過程も日記風に撮影しており、ロードームービー的なドキュメンタリーでもある(実際に全編を8ミリビデオで撮影するのは3作目からで、それまではベーカム撮影と併用している)。
作品はあくまでも松尾の視点から語られ、その時々の心情は膨大な量のテロップで表される。それは正に20代の青年による「私小説」だった。AVでありながら、主役は女性ではなく、カンパニー松尾自身なのだ。
ゴールドマンはより生々しい「セックス」を撮りたいという考えからハメ撮りという手法を編み出したのだが、カンパニー松尾はドキュメントとしての可能性を8ミリビデオカメラに見出した。
応募してきた素人女性の住む街へ向かう旅の様子や待ち合わせた喫茶店での会話、好物のカレーを食べる姿なども余さず撮っていく。巨大なベーカムカメラでは、そんなゲリラ撮影は不可能だ。小型の民生機だからこそ出来る撮影なのだ。
家庭用のビデオカメラの進歩はAVの表現の可能性を大きく広げたのである。
『私を女優にして下さい2』で知り合った素人女性の宮崎レイコとの恋愛感情まで取り込んだ「熟れたボイン」シリーズ、女優との二人旅をエモーショナルに描く『Tバックヒッチハイカー』、気の合う仲間とテレクラを巡る旅に出る『これがテレクラ!』シリーズなど、8ミリビデオカメラという武器を手にしたカンパニー松尾は独自のスタイルを築いていった。
またロック的な感性に裏付けされたエモーショナルな作風は、後進の監督や、他ジャンルの映像作家にも大きな影響を与えることになる。
カンパニー松尾の所属するV&Rプランニングに、当初は男優として関わり、後にADとして勤務。そして1990年に『女犯』で監督デビューしたのがバクシーシ山下だ。
『女犯』は衝撃的な作品だった。
ラブホテルの一室で男性たちが一人の女性をレイプする。女性は泣き叫びながら抵抗するが男性たちは怒鳴り、押さえつけ、ゲロまで吐きかけ、そして犯す。
それまでのレイプ物AVがおままごとに見えてしまうほどにリアルなその映像は、本当の犯罪を撮影したものとしか思えなかった。当日、数誌の雑誌から取材者が来ていたのだが、あまりの凄惨さに一誌も記事にしなかったと言う。
しかしその強烈な映像は大きな話題となり、セールスも好調だったため続編も作られた。
『女犯』、そしてバクシーシ山下の名前がAV業界以外にも知られるようになったのは、2年後のことだった。
続編である『女犯2』(1990年)を見たフェミニズム団体がこれを問題にしたのだ。
実際には現場では女優には全てを説明して納得の上で撮影が行われていたのだが、リアル過ぎる映像に「本当にレイプが行われたに違いない」と思われたのだ。
既に『女犯』シリーズは6作まで作られ、バクシーシ山下は「レイプものが得意な監督」と認識されていたが、この騒動により一般メディアでも「鬼畜監督」として取り上げられるようになった。
しかしその影響でビデ倫からの締めつけも厳しくなってしまった。「女犯」シリーズの発展型とも言える海外ロケを決行した『スーパー女犯3 表現の自由』(1992年)は、内容を大幅にカットすることを要求されてしまう。
結果的に本編はわずか42分、しかも作中で2回、突然に画面が約1分スノーノイズ(砂嵐)になり、「不良品ではありません。テレビが壊れたわけでもありません。もっと大事なものが壊れたのです…。しばらくお待ちください…」というテロップが映し出される。バクシーシ山下の精一杯の抵抗だったのであろう。
そして『女犯』のタイトルも使えなくなってしまったバクシーシ山下が次に放ったのは『ボディコン労働者階級』(1992年)だった。
ボディコン姿のAV女優・石原ゆりを東京のドヤ街である山谷へ連れて行って、日雇労働者たちとセックスをさせるという内容の作品だが、既存のドキュメンタリーで描かれる山谷とは違ったリアリティがそこにはあった。
ろくに風呂も入らず汚れて体臭もキツい労務者たちに身体を投げ出し、恥垢のたまったペニスも平気でしゃぶる石原ゆりは、まるで天使のようにも見えるが、撮影終了後のインタビューでは「こういうこと言ったらヤバイだろうと思って本人たちには言わなかったけど、甘いんですよね。変なところプライド高いし」とクールに語る。そしてバクシーシ山下はさらにそこに「日雇い労働者に対しての意見であるが、何故かそれは、AVギャル自身を語っているかのように思えた…」とテロップを付ける。
また世間から差別される立場である日雇い労働者たちの間でも差別意識が強いという現実も容赦なく映し出す。
「現代社会の被害者」「差別される可哀想な人」と言ったステレオタイプな決めつけとは一線を画したバクシーシ山下の視点は新鮮だった。そしてそれはAVの新たな可能性を見せてくれたのだ。
新感覚のドキュメンタリー作家として、バクシーシ山下は一般マスコミからも注目され、一躍時の人となる。
タブーへと踏み込んでいく作風が当時、いわゆる「悪趣味・鬼畜ブーム」と呼ばれたムーブメントとタイミングが重なったこともあり、そうした文脈で語られることもあった。
その後も山下は男女問わず社会の常識からはみ出してしまう人間にスポットを当てた独自の路線を歩み続けるが、カバリズムをテーマにした『全裸のランチ』(1993年)の包茎手術で切除した包皮を焼き肉にして食べるシーンがカットされたり、小人症のフィリピン人が女性をレイプする『初犯』(1992年)や、現役の自衛隊員が出演し、自衛隊の敷地内でも撮影した『戦車とAVギャル』(1993年)、交通事故死したAV女優のドキュメントで交通事故を再現した『死ぬほどセックスしてみたかった』(1994年)などが未発売に終わるなどビデ倫との軋轢が続いた。
イエス・キリストの復活を祝うフィリピンのイースター祭に参加してM男優を十字架で磔にした『SMワイドショー マゾに気をつけろ!!』(1996年)に至っては、国際問題にまで発展してしまった。
なにかと話題を提供し続けたバクシーシ山下だが、90年代にAVの表現の枠を大きく押し広げた重要な監督の一人であることは間違いない。
カンパニー松尾、バクシーシ山下と並んで90年代のV&Rプランニングを盛り上げたのが、平野勝之だ。
ぴあフィルムフェスティバルの常連入賞者であるなど、自主制作映画界で活躍していた平野勝之がAV監督としてデビューしたのは1990年。最初の監督作は林由美香主演の『由美香の発情期 レオタードスキャンダル』(ロイヤルアート)だった。
自主制作映画界での友人だった小坂井徹が、AV黎明期から異彩を放っていた高槻彰監督率いる制作会社シネマユニット・ガスに入社していた関係で平野にAVを撮るという話が来たのだ。
『由美香の発情期』自体は自他共に認める失敗作となったものの、1992年に撮影された『水戸拷悶 大江戸ひきまわし』が平野勝之の名前をAV業界に轟かせた。
主演の女優をバンに乗せて都内のあちこちを回りながら拷問していくという作品だが、冒頭にいきなり平野が「君ばっかり苦しい目にあわせるわけにはいかない」と自らの手の甲をカッターで十字に切りつける。以降、尋常ではないテンションで地獄絵図が展開されるのだ。車内で浣腸し、街頭でメガホンを使って集客した中で汚物を漏らさせたり、大量の食べ物を食べさせて嘔吐させたり、汚物をスタッフの顔に噴出させたり(かけられるうちの一人は、後に映画監督として活躍する井口昇)、最後には磔にされた女優に花火を浴びせる。
その凄まじいまでの狂気は、『女犯』のバイオレンスとはまた違った衝撃をAV業界に与えた。
平野勝之は、この作品についてこう語っている。
たとえばさ、僕がたいへん尊敬するキューブリックが『2001年宇宙の旅』でSF歴史に残るものをつくったというのと同じような考え方で、拷問とか、レイプものの歴史に残るものをつくりたいと。やっぱりそういうのを目標にしないとだめなんじゃないかと思って。それはAVの本道とは違うかもしれないけど。(平野勝之・柳下毅一郎、『「監督失格」まで 映画監督・平野勝之の軌跡』ポット出版、2013年)
低予算でキューブリックに匹敵するものを撮るにはウンコしかない。そう考えた平野勝之は以降も、男女がひたすら汚物を浴びる『ザ・タブー 恋人たち』(1993年)、下水道で撮影し警察沙汰となる『ザ・ガマン しごけ!AVギャル』(1993年)などを撮る。
また『ザ・タブー』主演女優が自力出産する『ザ・タブー2 あなたの赤ちゃん生ませて下さい』(1994年)は出産シーンがビデ倫の審査に抵触し、発売中止に追い込まれるという事件となった。
しかし次第に平野勝之は過激さを追求する路線から、「私小説AV」とでも言うような作風へと移っていく。
AV女優を実家に連れていきセックスフレンドだと親に紹介する『アンチSEXフレンド募集ビデオ』(1994年)や、本当の妻とのセックスまで登場する不倫ドキュメント『わくわく不倫講座 楽しい不倫のススメ』(1995年)、暴風雨の中でのセックスに挑む『SEXレポートNO.1 美人キャスターの性癖』(1995年)など、周囲の人間を巻き込んだ強烈なドキュメンタリー作品を連発。
実際の痴漢グループを主役にした『わくわく痴漢講座』シリーズ(1995〜2000年)などを挟みつつ、1997年には『わくわく不倫旅行』を撮影する。
プライベートでも不倫関係にあった林由美香と二人で日本最北の北海道礼文島まで自転車旅行するというロードムービーである。後に『由美香』のタイトルで劇場公開されるのも納得できるその生々しくも美しい映像は、AVの枠を遥かに超えたものだった。
平野はその後、『わくわく不倫旅行2』(1998年、劇場公開タイトル『流れ者図鑑』)、そして『白 THE WHITE』(1999年)と劇場公開作品を撮り、それらは自転車三部作と呼ばれた。第三作にあたる『白 THE WHITE』に至っては、平野勝之が一人で厳冬の北海道を自転車で走るドキュメンタリーであり、もはやAVでは無くなっていた。
そして2011年には、庵野秀明プロデュースによって、2005年に急逝した林由美香の死を巡るドキュメンタリー映画『監督失格』を発表することになる。
カンパニー松尾・井浦秀夫『職業AV監督』(秋田書店、1997)
東良美季『アダルトビデオジェネレーション』(メディアワークス、1999)
『AV30 メーカー横断ベスト!!! カンパニー松尾8時間』(ライナーノート、オールアダルトジャパン、2011年)
バクシーシ山下『セックス障害者たち』(太田出版、1990)
井川楊枝『封印されたアダルトビデオ』(彩図社、2012)
平野勝之・柳下毅一郎『「監督失格」まで 映画監督・平野勝之の軌跡』(ポット出版、2013)
Rio YASUDA
フリーライター、アダルトメディア研究家。主な著書に『痴女の誕生』『巨乳の誕生』『日本エロ本全史』(全て太田出版)、『AV女優、のち』(角川新書)、『ヘアヌードの誕生』(イースト・プレス)など。