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2022.01.13

16 インディーズの襲来[1]
マニアビデオとブルセラ

安田理央

1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。

インディーズビデオの起源

90年代のAV業界を席巻したのがインディーズビデオだった。

インディーズビデオの定義は難しい。インディーズビデオに強いAV専門誌として名を馳せた『ビデオメイトDX』(コアマガジン)に1999年12月号から、ノンフィクション作家の小野一光が連載したルポ「インディーズビデオ20年戦争」も、インディーズビデオとは何かという定義付けに苦労するシーンから始まっている。

インディーズビデオはセルビデオのことだとすると、80年代に大陸書房などが書店で販売していたAVも入ってしまう。編集長の松沢雅彦が「まぁ、とりあえずインディーズってのはですねぇ、ビデ倫の審査を受けずに発売される作品のことですよ……」と答えるが、そうするとAV黎明期のビデ倫加入前の宇宙企画やKUKIなどのメジャーメーカーの作品までもインディーズになってしまうのではないか、と小野は反論する。

15回にわたるこの連載の最終回で、小野は「インディーズとは、その人にとってもっとも興奮できる作品のことをいう」と抽象的な結論にいたる。

 ボクも最初のうちは、インディーズとはジャンルのことだと考えていた。だが、ジャンルとして確立したものであれば、数多くの意見を聞けば聞くほど、その傾向が徐々にはっきりと見えてくるはずなのだ。なのに実際は逆にはっきりしなくなっていった。というのも、人によってインディーズと規定するものが、バラバラだったのである。(「インディーズビデオ20年戦争」最終回『ビデオメイトDX』2001年2月号)

特にこの「インディーズビデオ20年戦争」が連載されていた00年代初頭は、数万本のヒットを飛ばすソフト・オン・デマンドのような大手メーカーも、個人で制作しているマニア向けメーカーも、ひとくくりにインディーズビデオと呼ばれていたため、こうした混乱が起きていたのだ。

現実的な定義としては、やはり松沢編集長が発言した「ビデ倫の審査を受けていないセル(販売用)ビデオ」ということになるだろう。逆に言えば、この時期のAVとは「ビデ倫の審査を受けたレンタル用のビデオソフト」ということになる。

インディーズビデオという呼称は90年代半ばから盛んに使われるようになった。80年代に音楽や映画の分野で自主制作や小規模な制作の作品をインディーズと呼ぶようになったことに倣ったのだろう。それ以前は通販ビデオ、マニアビデオなどと呼ばれていた。

そもそも80年代初頭のAV黎明期においては、ビデ倫無審査が当たり前であったし、流通は通販のみという作品も珍しくなかった。デッキが2台あれば簡単に複製することができるというビデオの特性からすれば、自主制作で商品を作ることは難しいことではない。

後にSMジャンルの名門メーカーとなるアートビデオもシネマジックも、ビデ倫に加入したのは1985年であり、それ以前は通販のみの完全にマニア向けの自主制作メーカーだった。

筆者が2006年に『S&Mスナイパー』でアートビデオの監督にして社長である峰一也へおこなったインタビューでは、そんな自主制作メーカーとしてのアートビデオの誕生が語られている。

カメラマンとしてSM雑誌の編集部に出入りしていた峰は、編集者からマニア向け通販ビデオの話を聞く。

峰:「その後、「バンビデオ」なんかをやるAさんって人なんだけど、通販ビデオを作ったら、すごく売れたんだって、段ボールいっぱいの現金書留を見せてくれた。へぇ、ビデオってこんなに売れるんだって驚いて、自分でもやってみたんです。それが始まりなんだ」

SM写真を撮るノウハウはあるのだから、なんとかなるだろう。峰氏は、こうしてアートビデオ第一作となる『地下室の淫魔』を撮影した。しかし、その機材は家庭用に買ったビデオカメラとデッキだった。

峰:「子供とか撮るために買ったやつ(笑)。一台しかないから編集は出来ない。頭から順に撮っていくしかないし、停止ボタンを押すと画面にノイズが入っちゃうから、カットする時は全てポーズ。でも、そのポーズが八分しか保たないから、その中で縛り直したりして大変でしたよ。失敗は許されない一発勝負。でも、その緊張感がよかったね。編集機を借りてって発想は全然なかったな。本当に手作り作品ですよ。タイトルも画用紙に手書きして、それを撮るだけ」(『S&Mスナイパー』2006年11月号)

当時はパッケージすら作っていなかったという。このようにして制作された初期の作品はSM雑誌数誌に広告を載せただけで、多くの注文が殺到した。1982年のことである。

AV黎明期においては、映画会社の系列などの大手メーカーと並行して、こうした自主制作レベルのメーカーも数多く存在していた。単に「インディーズビデオ」という呼称がなかっただけで、あり方としては、インディーズそのものだ。

また、AVが商品としての市場を確立した80年代半ばにおいても、緊縛研究家の濡木痴夢男が主催していた緊縛美研究会が会員向けに例会の様子をビデオに収録したことから始まった「緊美研ビデオ」や、スカートの中の隠し撮りを中心とした「トラッドハウス」などが、マニア向けとして通信販売で流通している。


『美貌秘書 悦楽縛り 後編』(製作年不明)

そして同時期に一部で盛り上がりを見せたブラックパックもインディーズの源流のひとつだと言える。

ブラックパックは、マイナーなメーカーが制作した販売用のビデ倫無審査ビデオであり、真っ黒な紙のパッケージに包まれていることから、ブラックパック(黒パック)などと呼ばれるようになった。パッケージには、おどろおどろしい書体で「変態」「地獄」「責め」といった文字が踊っており、内容もまた過激なプレイのSM物が多かった。


ブラックパックの諸作品

当時、AVが美少女物を中心とした洗練された方向へと向かっていたことへのアンチテーゼのように、あくまでもいかがわしいムードを漂わせていたブラックパックは、一部のAVファンから熱狂的に支持され、ビデオ情報誌などでも盛んに取り上げられた。

局部の修正も、この頃の主流であるモザイク加工ではなく、シェービングクリームを塗って物理的に隠すため、チラチラと性器が見えてしまうことも多かった。またビデ倫審査では許可されてない肛門も無修正で、アナル責めがプレイの中心になっていた。

1985年から1986年にかけて人気を集めたブラックパックだったが、内容のマンネリ化などから失速し、その後は入れ代わるように極端に修正の薄い「シースルービデオ」が登場する。こちらはブラックパックとは違って、SM色は薄く、普通のセックスを撮影した作品が多かった。

ブラックパックもシースルーも、裏ビデオを制作していた業者が手掛けていたなど、合法と非合法の間のグレーな存在であったが、その怪しげなムードもまた魅力だった。それは黎明期から黄金期にかけての数年間で、AVが切り捨ててしまったものでもあったのだ。

AVメーカーではできないこと

1985年にスタートするD.TIME-45もインディーズビデオの起源としては外すことのできない存在だ。

D.TIME-45は、AV監督、男優、編集者、ライターとして活躍した中野D児のプライベートメーカーだ。


『青山麗の「剃りマンでズビズビ‼」』(1985)

自分の好みの女優で自分の思う通りの撮影をしたいという発想で中野はD.TIME-45を立ち上げた。一作目となる『お尻の穴にもして欲しい』は、スレンダーなボディと妖艶な色気で人気のあった青山麗が出演している。その始まりは偶発的なものだったという。

D児「あれは、彼女がハワイに遊びに行く金がないっていうから、じゃ、貸してあげるけど、その代わりにビデオに出てヨって、ことでネ」(『ボディプレス』1987年1月号)

D.TIME-45の販売は当初、通販のみだった。それも中野が当時編集していた6冊の雑誌の中で勝手に広告記事を作って宣伝したのだという。しかし、それでも15000円のビデオに数百本もの注文が来た。

青山麗以外にも中川絵里、菊池エリ、藤村真美、森下優子など、中野の人脈を活かして人気女優が出演した。青山麗などはAV女優引退後に、妊娠してお腹の大きい状態で『青山麗のハラボテでもハメラれたい』という作品に出演している。

D.TIME-45の作品は、当時のレベルとしては(いや現在のAVに比べても)かなり修正が薄かったことも人気の理由だったようだが。

D.TIME-45のように、自分の嗜好を反映するというスタンスでビデオを撮影して通販で販売するという個人メーカーが80年代後半から少しずつ増えていく。

90年代に入って、こうした小規模メーカーのビデオが盛り上がりを見せ始める。それはAV情報誌などが紹介記事を掲載したり、取り扱うビデオショップが増えていったことにもよる。その代表的な存在がタイヨー高田馬場店だ。こうしたビデオをいち早く委託販売し始め、通販ビデオのメッカ的存在となった。

この時期の代表的な作品としては、佐藤義明監督による「SMマニア撮り」シリーズ(ジュリアン)や、松下一夫監督の「美少女スパイ拷問」シリーズ(松下プロ)、小原譲監督の「ボンデージ」シリーズ(小原譲プロダクション)などがあった。


『ボンデージブロッサム1』 (製作年不明)

「SMマニア撮り」は固定カメラでSMプレイを撮影した物で、佐藤監督は他にもスカトロ物も制作していた。「美少女スパイ拷問」は大の字に拘束した女性をひたすらくすぐるという物、小原監督の作品はチャイナドレスや下着姿の女性が猿ぐつわをかまされ、ロープで縛られて身をよじるだけというノンヌードの正統派ボンデージ作品だった。

いずれもSMやフェチに特化したマニア物で、セックスシーンも無い。

ちなみに松下監督の「美少女スパイ拷問」シリーズは、捕らえられた女スパイを拷問するという設定や、電動マッサージ機を使用した責めなど後のAVに与えた影響は大きく、伝説的に語られることも多い作品だ。

Dカップ女優として80年代に人気を集めた中村京子が本格的ボンデージ作品「ボンデージ・ライフ」シリーズ(MBD)を自ら制作したり、ライターとして活躍していたラッシャーみよしが、ザーメンやスカトロなどのフェチに特化したメーカー「ハウスギルド」を設立して積極的に作品をリリース、ゴールドマン監督も名前を伏せてストロベリー社という名義で「ギャルズ・ギャグ」シリーズなどの着衣ボンデージ物を数多く制作するなど、業界関係者が商業メーカーでは出来ないマニアックな作品を自主制作するといった動きも見られた。これは中野D児のD.TIME-45から続く流れだと言える。

そして、それはユーザーにとっても同じだった。可愛い女の子が普通にセックスしているだけのAVでは興奮できない、本当に自分が見たいものであれば、高い金額を払っても構わない。そう思っていたユーザーは少ないながらも確実にいたのだ。

この頃のインディーズビデオは、5000円から1万円という高価な商品であるにもかかわらず、コピーのジャケットに紙焼きプリントの写真を直に貼り付けただけのパッケージが主流だった。そのチープな手作り感覚が、作っているのも自分たちの仲間であるという気持ちを抱かせたのかもしれない。

しかしその後、インディーズビデオが注目され、市場が拡大していくにつれ、パッケージも一般のAVと変わらないような美麗なデザインの印刷になっていった。

ブルセラビデオの出現

ブルセラとはブルマー&セーラー服の略であり、女子中高生的なものを意味する。『熱烈投稿』(少年出版社)に1985年8月号(創刊号)から連載された「ブルマーとセーラー服大好き少年のための情報満載&投稿ページ 月刊ブル・セラ新聞」がその語源だと言われている。

そして80年代半ばから現れた使用済みの下着や中古の制服を販売するショップがブルセラショップと呼ばれるようになる。

こうしたショップも当初は、OLや主婦の使用済み下着が中心だったが、次第に女子中高生が自分の下着や制服を持ち込むことが増え、またその売れ行きもよかったためにメインとなっていったようだ。

そして90年代初頭にブルセラショップがオリジナルビデオを制作・販売し始める。

永江朗の『アダルト系』(アスペクト、1998年)にその始まりが「証拠ビデオ」であったという業界関係者の証言が掲載されている。

 どうして中古制服&下着店がビデオを作って売るようになったのか、その起源について業界の草分けであるR氏に聞いたことがある。「最初は証拠ビデオだったんだよね」とR氏は言った。証拠? 証拠ってなんの証拠だ?
「誰がはいてたパンツなのかという証拠だよ」
〔……〕ただ袋に入れても、マニアは「女子高生の脱ぎたてっていっても、ほんとはブスなオバはんがはいてたんとちゃうか?」と疑り深い。そこでR氏は生写真をつけることにした。これが大好評。
「写真で喜んでくれるなら、ビデオならもっと喜んでくれるかな、と思ったんですわ」
 要するに「この下着は確かにこの娘が着用しておったものです」と下着を保証するのがビデオであったのである。

使用済み下着の価値を証明するために作られたこのビデオが好評で、下着よりもこちらを欲しいという客が増えていく。一度撮影して制作すれば、ダビングしていくらでも商品を作れるビデオは、店にとっては使用済み下着よりもメリットが大きかった。

こうして他のブルセラショップでもオリジナルビデオは作られるようになっていく。

当初のブルセラビデオは、証拠という目的のため、その下着の持ち主である女の子がスカートをたくしあげて、下着を脱ぐだけというシンプルで大人しいものであったが、それがビデオとして独立した商品となったため、次第に内容もエスカレートしていく。下着の上からオナニーをする、胸を見せる、放尿をする、さらには男性とからむといったAVまがいの物になっていった。

『ブラックボックス』2007年3月号(バウハウス)掲載の「女子高生今昔物語 1993〜1997年 ブルセラに日本中が悪酔いした時代」という当時を回願した記事には、当時のブルセラビデオの制作費が記されている。

 女子高生の出演料は1人3〜10万円で、店員が手持ちの8ミリをまわして撮った総予算20万円程度のビデオ。定価1万2〜5千円で20本売れれば元がとれる計算が、1タイトルなんと5000本(!)も売れたというから、そりゃもうボロ儲けもいいところ。全盛期には東京都内で20店舗のブルセラショップが現れ、置かれる商品も次第にエスカレートしていった。

ブルセラという言葉が世間に知られるようになったのは、1993年8月にブルセラショップが古物商営業法違反で摘発されたことがきっかけだった。また同時期にブルセラビデオ制作者も逮捕されている。さらにビデオに出演していた女子高生110人も補導された。

それ以前にもブルセラショップなどを取り上げる記事などは出始めていたのだが、やはりインパクトがあったのはこの報道であった。

もちろんブルセラショップを問題視する声も上がったが、むしろその存在を知ったユーザーが店に押し寄せるといった告知効果の方が大きかった。そしてそれ以上に、自分たちの価値に気づいた女子高生たちが、売り手として店に足を運ぶこととなったのである。

摘発以降、ブルセラブームは過熱していった。

当初はそのショップでしか購入できなかったブルセラビデオだが、こうなるとそのニーズも高まり、通販や一部のビデオショップなどにも流通し始める。

『アップル通信』(三和出版)はビデ倫系AVをメインで取り扱っていた雑誌だが、インディーズビデオの紹介も早かった。1993年10月号を見てみると「ビデオインディーズ最前線」というコーナーなどで、51作のインディーズビデオが紹介されているのだが、そのうちブルセラビデオに分類されるものは20作。かなりの割合がブルセラビデオなのだ。


当時のブルセラビデオのパッケージ

初期インディーズビデオの盛り上がりにおいてブルセラビデオが重要な役目を果たしていたことは間違いない。初期インディーズブームの代表的なメーカーであるアロマ企画も、その始まりはブルセラビデオであった。

こうしてインディーズビデオは、少しづつ盛り上がりを見せていたが、5千円から1万円と価格も高く、流通経路も限られ、そしてそれ以上にその内容のマニアックさから、あくまでもユーザーを限定するニッチな存在に過ぎなかった。

〈参考資料〉

藤井良樹『女子高生はなぜ下着を売ったのか?』(宝島社、1994年)
永江朗『アダルト系』(アスペクト、1998年)
『ビデオメイトDX』1999年12月号、2001年2月号(コアマガジン)
『S&Mスナイパー』2006年11月号(ワイレア出版)
『マニアビデオ大全集』(コアマガジン、1998年)
『アサヒ芸能』2019年11月7日号(徳間書店)
『ボディプレス』1987年1月号(白夜書房)
『熱烈投稿』1985年8月号(少年出版社)
『ブラックボックス』2007年3月号(バウハウス)
『アップル通信』1993年10月号(三和出版)
『噂の真相』1993年10月号(噂の真相)
『ダ・カーポ』1993年11月3日号(マガジンハウス)
『ベストマガジンスペシャル』1999年4月号(KKベストセラーズ)
「WEBスナイパー」(http://sniper.jp/