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春がいっぱい

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2022.03.03

22 レンタル vs. セル[2]
熟女ブームとD-1クライマックス

安田理央

1981年に発売された『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』にはじまるとされるアダルトビデオは、その誕生から今年で40年を迎える。欧米のポルノビデオとはまったく異なる独自の進化/深化をたどり、世界の性産業に影響を与える日本のエロビデオ文化を、アダルトメディア研究家の安田理央が、その前史から現代に至るまで、メディア、流行、社会状況、規制との駆け引きなど多様な視点から歴史化する連載。

熟女の台頭

痴女ブームと同時期にAV業界には、もうひとつの、そして後に最も人気の高いジャンルとして定着するブームが起きていた。

熟女である。熟女という言葉は80年代から使われ始めたが、AV業界に定着したのは90年代からである。

80年代末から90年代前半にかけて熟女物は少しずつ撮られ始めているのだが、この頃の扱いとしては、あくまでもマニア物であった。

戦後すぐから70年代にかけて、人妻物はアダルトメディアにおいて重要なジャンルであり、成人映画などでも人妻物は数多く撮られていた。

80年代に入って登場したAVでも、黎明期においては人妻物も重要なジャンルの一つであった。しかし80年代も半ばに差し掛かるとAVから人妻物は姿を消し始める。「若くて可愛い普通っぽい女の子」が至上なものとされ、人妻、ましてや熟女は顧みられることがなくなっていった。数少ない人妻物も、若い女優が演じる幼な妻物がほとんどだった。

80年代末から90年代にかけて、安達かおる監督の「奥さん、いいじゃないですかへるもんじゃないし」シリーズ(V&Rプランニング)や芳賀栄太郎監督の「おふくろさんよ!」シリーズ(ビッグモーカル)などが人気を集め、熟女というジャンルに注目が集まり始める。


『おふくろさんよ!』(1990)

しかしこの頃の熟女物は、マニア向けのジャンルであり、ビデオショップなどでもSMやスカトロ、ニューハーフなどの作品と一緒に扱われることが多かった。「普通の」男性は若い女の子を求めるのが当たり前というのが、AV業界の認識だったのだ。

その風向きが変わったのは1999年にソフト・オン・デマンドから発売された『義母〜まり子34歳』がきっかけだった。それは美少女単体物を中心に撮っていた溜池ゴロー監督が、川奈まり子を主演に起用した単体ドラマ物であった。


『義母〜まり子34歳』(1999)

既に熟女物はマニアックなジャンルとして定着しつつあったが、複数の女優が出演する企画物がほとんどであり、制作費も安く抑えられるのが普通だった。

溜池は、『NAO DVD』2009年10月号(三和出版)のインタビューで当時の状況をこう語っている。

 その頃は熟女の単体というのは無かったんですよ。熟女というと、おばちゃんの企画モノだけ。大人の女をちゃんと綺麗に撮ろうといっても、どこのメーカーも話を聞いてくれなかった。〔中略〕当時のAVメーカーは、ロリ系巨乳じゃないと売れないって勝手に決めつけてた。そんな統計はどこにもないのにね。

色気のある大人の女性が自分のツボだと感じていた溜池は、それは自分だけの嗜好ではないと考えていたが、理解を示したメーカーはソフト・オン・デマンドただ1社だけだったのだ。

溜池は「面接ではじめて会った時から勃起した」(『NAO DVD』2009年10月号)という理想の熟女女優・川奈まり子を得て念願の作品に取り掛かる。『義母〜まり子34歳』は3日撮りという本格的なドラマ物であった。従来の美少女単体物以上の予算が投入されたと言う。

この前代未聞の豪華な熟女単体物は販売総数2万本という大ヒットを記録した。熟女の単体作品を見たいと思っていたユーザーはそれだけ存在していたのである。

『義母〜まり子34歳』のヒットにより、川奈まり子は一躍人気女優として注目される。

その少し前から、もう一人の熟女女優も人気を集めていた。1998年にクリスタル映像から『31歳 はじらいデビュー』でAVデビューした牧原れい子である。1990年に中山れい子の名前で『GORO』の「激写クイーンコンテスト」の5クイーンズの一人に選出されたという過去を持つ整った美貌の美女だ。牧原れい子は『義母〜まり子34歳』に続くソフト・オン・デマンドの熟女単体作品第2弾『女教師〜れい子34歳』にも出演する。


『31歳 はじらいデビュー』(1998)

美貌と大人の女性ならではの色気を併せ持つこの二人の女優が牽引する形で「美熟女」ブームが巻きおこった。

『SPA!』2001年11月21日号(扶桑社)では、「『熟女系』大ブームの秘密を探る!!」と言う特集まで組まれた。

 今、熟女がブームだという。30・40代の女性が、若い男たちの性的対象としてもてはやされているのだ。
 そういえばレンタルビデオ店のアダルトコーナーでも、熟女系の棚が幅を利かせるようになった。
「熟女系は回転率がいいので、入荷数を増やしていたら、自然にコーナーができてしまった感じですね」(渋谷のビデオレンタル店)
 ブームといっても、一部マニアの嗜好がピックアップされただけじゃないか? とも思える。しかし「スカイパーフェクTV」でダントツ人気のAV系アダルトチャンネル『フラミンゴ903』を制作する岡野貴広さんは言う。
「熟女作品のAVが注目され始めたのは2年ほど前からですね。僕としては番組にメリハリをつける意味で、見世物的に熟女作品を取り上げたのですが、予想外に反響がありまして。今では番組視聴者数で、上位は熟女モノが占めているんで、僕も驚いてます」
 若い女優の作品が大半を占めていた同番組は、3割が熟女作品にとって代わったというのだ。

熟女は、同時期に盛り上がりを見せた痴女ブームとも相性がよかった。性に対して積極的であるという熟女のイメージは痴女とも共通する。鏡麗子や桜田由加里といった痴女系熟女女優にも人気が集まった。

ビッグモーカルやクリスタル映像、現映社などのレンタル系メーカー、センタービレッジやルビー、ジャネス、グローバルメディアエンタテインメント、そして溜池ゴロー監督を擁するドグマなどのセル系メーカーが熟女作品を次々とリリースしていた2003年末、ムーディーズが好調だった北都グループが初の熟女専門メーカー、マドンナをスタートさせる。

その第1弾となったのが楠真由美、友崎亜希、友田真希の『男喰い熟女〜ザーメン絞り〜』だった。当時熟女女優として人気絶頂だった3人が共演するという豪華なキャスティングで話題となり、大ヒットとなった。


『男喰い熟女〜ザーメン絞り〜』(2003)

また00年代を代表する熟女女優となった紫彩乃の出演作を数多くリリースしたこともマドンナの存在を確固たるものとした。

人気熟女のドラマ物からナンパなどの企画物まで幅広いジャンルの作品を手掛けるマドンナは「熟女の総合デパート」の異名を取り、その後も熟女AVの王者として君臨する。

そして2005年、紫彩乃と赤坂ルナがミリオンマダムズに就任する。新興でありながら破竹の勢いでトップメーカーの仲間入りを果たしたミリオンが、そのイメージガールとして結成したミリオンガールズは、及川奈央、早坂ひとみ、小沢菜穂、如月カレンなどの超人気女優を選出していたのだが、この年に熟女部門ミリオンマダムズが新設されたのだ。

かつてはマニア向けのキワモノ扱いだった熟女が、遂にAVの王道だと認められた瞬間であった。

熟女はその後、さらにその人気を拡大していくことになる。

監督の時代を締めくくったD-1クライマックス

2005年4月、TOHJIRO監督率いるメーカー、ドグマの設立4周年記念イベントにおいて、「D-1クライマックス」開催が発表された。

「D-1クライマックス」は、メーカーの枠組みを超えた監督たちが、オーディションで選ばれた女優を撮り、発売された作品の売上によって優勝を争うというイベントだ。

2001年にもエムズ(MVG)が、ザーメンビデオ界のナンバーワン監督を作品売上で競うという「ザーメンチャンピオンカーニバル」を開催していたが、そのシステムを拡大したイベントだとも言える。


『ビデオメイトDX』2001年1月号に掲載された「第1回ザーメンチャンピオンカーニバル」の広告

参加監督は、主催のドグマ所属のTOHJIROと二村ヒトシ、ナチュラルハイの社長でもあるとっちん、SODクリエイトの社員監督である土屋幸嗣、V&Rプランニングから独立してフリーになり2004年にハマジムを設立したカンパニー松尾、過激な作品で名を上げたばば★ざ★ばびい、「ザーメンチャンピオンカーニバル」を主催していたエムズの松本和彦に加えて、男優の黒田将稔、女優の三上翔子という9人。優勝賞金は100万円だ。

女優の人気で売上が左右されるようになり、単体女優を売れている企画に当てはめるだけの作品ばかりになっていく状況に危機感を抱いたことが、このイベントの開催に結びついたとTOHJIRO監督は語っている。

TJ 去年の春から夏にかけての大手メーカーによるA級の女のコの取り合いによって、女優至上主義になってしまった。〔中略〕その戦略が激しさを増し、ショップに行くと見事に単体ばかりになったなかで、インディーズはこれでいいのかと。レンタルに対するアンチだったインディーズなのに、大昔にレンタルがやってきたことを焼き直してるだけではないか。それはユーザーが本当に求めているものなのか。監督が作りたいと思うこだわりのエロ、それに共鳴してくれる女のコ…有名じゃなくてもいいから、今やエロ神話になった長瀬愛や堤さやかみたいなコが出てこないかなと思って、騒ぎを起こしてみようとしたのがD-1クライマックスです。(『ビデオメイトDX』2006年1月号)

 だからグランプリを取って100万円の賞金をもらうことよりも『俺はこういうのを撮りたいんだ』、『私の代表作を撮ってもらいたい』っていう憂さを、思い切りはらしてる。そんな場が、D-1クライマックスなんだよ(『D-1クライマックス公式ガイドブック2007』ジーオーティー、2007年)

監督の個性を打ち出したいというTOHJIROのコンセプト通りに、発表会でも監督たちは派手に怪気炎を挙げてそれぞれのキャラクターをアピールした。松本和彦などはバックダンサーを従えて登場するといったショーマンシップを見せた。

結果は、1位がTOHJIRO×星月まゆらの『Mドラッグ』、2位が二村ヒトシ×楓アイル・雨宮ラムの『この世でいちばんエロいコト』とドグマの監督が上位を独占し、ホームの強さを見せつけた。


『Mドラッグ』(2006)

商業的にも話題的にも成功を収めた「D-1クライマックス」は2006年に11人の監督が参加した第2回、そして2007年に14人の監督が参加した第3回が開催される。

回数を重ねるに連れ、監督たちのパフォーマンスはエスカレートしていった。第2回の表彰式では、連覇を果たしたTOHJIROの「今回で監督としての参加は終える」という発言に松本和彦が「勝ち逃げするのかよ!」「エロシンデレラの発掘とかいって、知ってる女優で仲良しこよしで撮ってはずかしくないか?」と挑発。すると第2回には参加していなかった松本に対してTOHJIROが「お前がやるなら、もう1回やる」というやりとりがあり、2人は第3回にも参加することに。

しかし第3回では、TOHJIROが「新人女優で撮る」という公約を破って日高ゆりあと泉まりんという人気女優を起用することになり、ペナルティとして売上ポイントを半分にするというハンディを負うことになる。TOHJIROは公開オーディションの場で土下座までしてみせた。

ところがこれもすべてTOHJIROとの打ち合わせ通りだったと『D-1クライマックス公式ガイドブック2007』のインタビューで参加監督の松本和彦と松嶋クロスが暴露している。

こうしたパフォーマンスも、AV監督たちのキャラクターが立っていたから成り立っていたとも言えるだろう。

この第3回をもって「D-1クライマックス」は終了する。「とりあえず2回目は単体じゃないエロにお客さんがついて来てくれた。だから興行的にも成り立ったのに、3回目はついて来てくれない。終わりにしたのは興行的によくなかったのが一番」(『ビデオメイト』DX2008年3月号)とTOHJIROが語っているように商業的な理由のようだ。

D-1クライマックスが開催された2005年から2007年にかけて、インディーズ=セルAV業界は大きく状況が変わっていたのだ。

それまでのインディーズAVでは、監督の名前がパッケージにも大きく記されていたし、AV雑誌でも監督をクローズアップし、半ばタレント的に扱うことが多かった。いや、それ以前のレンタルAVの時代でも、村西とおるをはじめとして監督の名前が前面に出ることは珍しいことではなかった。

D-1クライマックスはそんな「監督の時代」を締めくくる最後の宴だったのかもしれない。

〈参考資料〉

『NAO DVD』2009年10月号(三和出版)
『SPA!』2001年11月21日号(扶桑社)
『EX大衆』2007年8月号(双葉社)
『べっぴんDMM』2009年6月号(ジーオーティー)
『ビデオメイトDX』2001年1月号、2005年6月号、2006年1月号、3月号、2008年3月号(コアマガジン)
『オレンジ通信』2008年3月号、(東京三世社)
『ビデオ・ザ・ワールド』2005年6月号(コアマガジン)
『D-1クライマックス公式ガイドブック2007』(ジーオーティー、2007年)